第 十九 難

第十九難




十九難に曰く。経に、脉に逆順があり、男女には恒のものがありまた反するものがあるとありますが、これはどのような意味なのでしょうか。


上難では天人地の三部について論じました。この難では人における大きな違いについて述べています。男女は人の二大分類です。陽を男とし、陰を女とします。男女は同じように人なのですが、その違いとして、男は剛であり女は柔であるというように稟賦の〔訳注:先天的な〕体形が先ず異なります。さらに、男は伏し女は(のいふ)〔訳注:仰向けに倒れる〕というように生死の形が異なります。男は雄とし女は雌として平素の声も異なります。さらには男は血気がしっかりしており筋力も強く、女は血気が満ちたり欠けたりして生理があります。男は完全な形がありますが、女は欠けています、欠けて鬚がありません。また男は施し女は受けます、受けて妊娠することがあります。陰は升る性質があり、陽は下る性質があります、ですから女の乳房は上に盛ですが、男の性器は下に垂れます。これらは皆な男女の区別です。脉状がこれに逆するものは反〔訳注:異常〕であり、順うものは恒〔訳注:常態〕です。






然なり。男子は寅に生まれます、寅は木であり、陽です。女子は申に生まれます、申は金であり、陰です。ですから男の脉は関上にあり、女の脉は関下にあります。このために男子の尺脉は恒に弱く、女子の尺脉は恒に盛です。これが男女の脉の常となります。


天の陽は子に生じ、地の陽は丑に生じ、人の陽は寅に生じます。その子丑の時には、陽は生じていますけれども陰中に伏していて現われません。寅の時になって始めて陽が現われるのは、人道の和を得ることによって陽が成立するということを表わしています。このため寅の月〔訳注:旧暦の正月〕を春とします。男子は陽ですから、人道の陽が発する寅に生じます。


天の陰は午に生じ、地の陰は未に生じ、人の陰は申に生じます。その午未の時には、陰は生じていますけれども陽中に伏していて現われません。申の時になって始めて陰が現われるのは、人道の和を得ることによって陰が成立するということを表わしています。このため申の月〔訳注:旧暦の七月〕を秋とします。女子は陰ですから、人道の陰が発する申に生じます。


寅申とは陰陽のことなのですが、陰陽という言葉は使わずに寅申と言っています。この用法は、七難で六十日という言葉を使わずに甲子と言っていることと同じです。これは文章を作成する際の妙法であると言えるでしょう。けれども扁鵲公は後人が寅申の文字に拘泥することを恐れて本文の中で自ら釈して、寅は木に属し陽となし、申は金に属し陰となすと言っています。


天においては寅申と言い、地においては木金と言い、人においては男女と言います。男は外事〔訳注:外の仕事〕を勤めその志は四方に広がります、女は内事〔訳注:内の仕事〕を勤めその意は中饋(ちゅうき)〔訳注:家事〕にあります。その気について言えば、男子の気は関外に充満するため寸が盛で尺が弱くなり、女子は関内に充満するため尺が盛で寸が弱くなります。これがその常であるということになります。


ここでいう弱は虚弱という意味ではなく、盛に対する弱です。ここでいう盛は盛実という意味ではなく、弱に対する盛です。男女の形は同じですので診脉部位は同じですが、男女の気は異なりますので脉気の盛弱は異なります。形が同じということは心肺は上にあり肝腎は下にあるといった類のことであり、気が異なるということは陽の性は下行して伏し陰の性は上升して(のいふ)すという類のことです。後人に、男女の診脉部位を左右逆にするなどして倒診するものがいますが、経義をしっかり理解していないことによる過ちです。






反するものは男であるのに女の脉を得、女であるのに男の脉を得ます。


男女がその恒を失うものは逆です。人道において逆するときは国家が乱れ、脉法において逆するときは形気が危うくなります。皆なその常を失った状態です。易に、恒は久しいということであると述べられています。常恒を得るものは順であり長久です。






そのような脉状の者が病となるとどのようになるのでしょうか。


そのような脉状とは反脉を指しています。脉診という外において反しているということは、病変が内に生じているということを表わしています。政令が国益に逆する場合は、異常な災いが国内に起こるようなものです。






然なり。男が女の脉を得るものを不足とし、病が内にあるとします。左にこのような脉状を得るときは病が左にあり、右にこのような脉状を得るときは病が右にあります。脉の搏つ側にしたがって判断します。女が男の脉を得るものを太過とし、四肢に病があるとします。左にこのような脉状を得るときは病が左にあり、右にこのような脉状を得るときは病が右にあります。脉の搏つ側にしたがって判断するとはこのことを言います。


男が女の脉を得るものは、陽が屈して内に入った状態です、これを不足とし、病が内臓にあると考えます。内臓に病があると気が内に合して外に出ることができなくなります、ですから関外〔訳注:寸位〕が衰えて関内〔訳注:尺位〕が盛になります。女が男の脉を得るものは、陰が守りを失い外に濫れた状態です、これを太過とし、病が外肢にあると考えます。外肢に病があると気が外に合して内を充たすことができなくなります、ですから関外が盛で関内が衰えます。この診法は、寸位を外と考えて四肢を候い、関位を中と考えて皮膜を候い、尺位を内と考えて臓腑を候っています。これもまたひとつの方法であると思います。診法にはもともと一定の決められたものはないので、その時と場合によって変化します。意識的に使い分けていかなければなりません。


問いて曰く。外病として四肢だけを上げる理由は何なのでしょうか。

答えて曰く。四肢は外で動きます、身体の外の機関であると言えます。臓腑は内で活動しています、体内の機関であると言えます。ですから四肢は外の活動の主となりますので、外の病の首魁〔訳注:中心〕となります。臓腑は体内の活動の主となりますので、体内の病の首魁となります。経脉は四肢に生じますので、四肢はこの経絡の病を主ることになります。経絡という言葉を使わずに四肢という言葉を使い、臓腑という言葉を使わずに内という言葉を使っているわけです。これは文章の作法であると言えるでしょう。男子は陽が外に出ていくので四肢が剛強です、女子は陰が内に縮んでいるので意志が慳貪〔訳注:けちで欲張り〕です。男子は慳貪さが少ないので聡明な人が多く、女子は剛強さが少ないので柔婉〔訳注:柔らかくしとやか〕な人が多いのです。また男女と言ってもその常を失っているものもあります。女らしい男もいますし、男の声のような女もいます。嫉妬深い男もいますし、賢い女もいます。さらには男が変化して女になるものもありますし、女が変化して男になるものもあります。けれどもこのような類について、あえて記すことはしません。


問いて曰く。第三難に関前関後の浮沈について説明されていますが、この難における盛弱とどのように異なるのでしょうか。

答えて曰く。浮沈は脉の形体であり、盛弱は脉の勢いです。浮の中にも当然盛のものも弱のものもありますし、沈の中にもまた盛のものも弱のものもあります。浮沈と盛弱とは全く異なった概念なのです。けれども、浮沈も盛弱も元気な人であれば胃の気の和緩の中にあるので、ただ微浮・微沈・微盛・微弱を示しているだけで明確にその形状を見ることはできません。また三難で過不及と言っているのは陰陽が互いに相手に乗じている脉状のことであり、この難で過不足と言っているのは陰陽の虚実のことを言っているものです。これは十五難で語られている過不及の方にその意味は近くなります。



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