第 二十 難

第二十難




二十難に曰く。経に、脉には伏匿があるとありますが、どの臓に伏匿して、伏匿と言うのでしょうか。


この難を理解していくために、縦横と開合という理論を用いましょう。先ず、この難で述べられている八脉は部位によって説明されていますが、これを横とします。四難の六脉は形勢によって説明されていますが、これを縦とします。また、この難に述べられている陽が陰に乗ずる脉状と、四難の沈で滑〔訳注:一陰一陽の脉状〕沈滑で長〔訳注:一陰二陽の脉状〕とを、縦横で開合しているものとします。陽中の伏陰と、浮滑にして長で時に一沈するもの〔訳注:一陰三陽の脉状〕とを、開合しているものとします。陰が陽に乗ずる脉状と、浮で濇〔訳注:一陽一陰の脉状〕長で沈濇〔訳注:一陽二陰の脉状〕とを、開合しているものとします。陰中の伏陽と、沈濇で短で時に一浮するもの〔訳注:一陽三陰〕とを、開合しているものとします。このように縦横という経緯を用いることによって、脉理を全て説き明かそうとしているのです。さらに、十四難の損至の脉を縦とし、この難の重陽脱陽・重陰脱陰の脉を横とします。十四難で述べられている過不足とは、陰陽がその位を離れずに自身で過不足している状態です。この難の乗伏とは、陰陽がその位〔訳注:本来あるべき場所〕を離れて互いに争いあっている状態です。


問いて曰く。陰陽は本来情というものをもちません。そのような情というものを持たないもの同士が互いに争って乗じたり伏したりするのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。有情と無情とはもともと一体のものです。ですから陽が勝った場合は、陰がその位を離れ陽がその位を奪います。その逆に陰が勝った場合は、陽がその位を去って陰がその位を奪います。このような陰陽の消長は、水が勝てば火が消え、火が勝てば水が乾くことと同じように現われるものです。天地には本来は寒暑という一定の位はありません。冬寒の位に夏が取って代わると夏暑の位となり、また夏に氷が降る場合は陰が陽に乗じていると考え、冬に花が開く場合は陽が陰に乗じていると考えます。人間というものは五行の精華であり、陰陽のあらゆる側面を具えているものです。ですから天地の陰陽が互いに感応しあい影響しあっているのと同じように、陰陽の全てを兼ね備えているのです。陰陽にはもともと確固とした形はありません。ですから陽が勝つと身体が熱し、陰が勝つと身体が冷え、陽邪を感受すると熱し、寒邪を感受すると冷えます。同じように脉状においても陰陽の盛衰にしたがって乗じたり伏したりするわけです。あたかも情があるものであるかのように。けれども無情のものが制し伏す時には自然で私がありませんが、有情のものの場合には作為的になることがままあります。この点が有情のものと無情のものとの異なる所であると言えるでしょう。






然なり。陰陽相互に乗じ、相互に伏することを言います。脉が陰の部位にありながら反って陽脉が現われるものは、陽が陰に乗じたものと判断します。その脉状がときに沈濇で短を示していたとしても、それは陽中の伏陰とします。脉が陽の部位にありながら反って陰脉が現われるものは、陰が陽に乗じたものと判断します。その脉状がときに浮滑で長を示していたとしても、それは陰中の伏陽とします。


「脉が陰の部位にありながら反って陽脉が現われるもの」という文の中で、陰部とあるのは尺位のことであり、陽脉とあるのは浮滑で長の脉状のことです。尺位の脉状が浮滑で長のものは、陽邪が陰の中に入ったものであると判断するというわけです。内熱・下虚・精濁・閉渋等の病があると考えられます。またその浮滑で長の脉状の中に、ときどき沈濇で短の脉状を呈するものは、陽脉の中に陰脉が伏している状態です。内熱がある中に、寒や積を兼ねるような病が考えられます。「脉が陽の部位にありながら反って陰脉が現われるもの」という文の中で、陽部とあるのは寸位のことであり、陰脉とあるのは沈濇で短の脉状のことです。寸位の脉状が沈濇で短のものは陰邪が陽中に入ったものであると判断するというわけです。表寒・上虚・胸悶・喘嗽等の病があると考えられます。またその沈濇で短の脉状の中に、ときどき浮滑で長の脉状を呈するものは、陰脉の中に陽脉が伏している状態です。表寒がある中に、熱や痛みを兼ねるような病が考えられます。このように病変が複雑多岐にわたるため、その脉状も錯雑として現われます。その病候については、四難の注を参考にしてください。






重陽のものは狂となり、重陰のものは癲となり、脱陽のものは鬼を見、脱陰のものは盲目となります。


「重」とは、陰陽が実して重畳すること〔訳注:さらに偏勝すること〕を言います。「脱」とは、陰陽が虚して脱去することを言います。上文では陰陽が相互に乗伏することについて論じており、その病状は複雑多岐にわたりますので、病状については他の難に譲って重複を避けています。ここでは陰陽の偏勝偏絶について説明しており、その病状はあまり複雑ではないので病症についても記載してあります。


重陽とは、陽部に陽脉を現わすもので、寸位の脉状が浮滑で長のものを言います。陽邪が上部を侵している状態なので、心肺は煩乱して狂となります。狂とは、陽が勝ち、気が盛となって瞋怒し〔訳注:怒り狂い〕・罵言し〔訳注:罵詈雑言を言い〕・笑傲する〔訳注:狂ったように笑う〕ものを指します。


重陰とは、陰部に陰脉を現わすもので、尺位の脉状が沈濇で短のものを言います。陰邪が下部に入っている状態なので、腎肝は欝閉して癲となります。癲とは、陰が勝ち、気が衰えて悲哭し〔訳注:嘆き悲しみ〕・畏縮し〔訳注:畏れ縮こまり〕怨讟(えんとく)する〔訳注:怨み憎む〕ものを指します。


脱陽の場合は、陰脉が陽部を奪います。その脉状が仮りに沈濇で短を現わしているのは、陰が陽に乗じているからです。このように陽脉が敗れて沈濇で短の脉状に変化するものは、脱陽です。このような状態となると、心肺の神光が精華の府〔訳注:あたま〕を照すことができなくなって朦朧とするため陰鬼を見ることがあります。怯えた人が、その畏れのゆえに心魂が昏乱し、実際にはそのようなものは存在していないにもかかわらず驚いて見るようなものです。死の床にある人の多くが、立派なお堂や乗り物などの異物を見たり、すでに亡くなっている人を見てその名前を呼ぶといった類のものもまた、脱陽です。また癡疾や疑疾〔訳注:ともに痴呆症〕のものがいますが、そのような人は身体は健康であっても知恵の光がないため、暗がりの車に鬼が載っているとしたり、藤を見て蛇としたり、茄子を踏んで蛙だと思ったりします。これもまた、この類です。


脱陰の場合は、陽脉が陰部を奪います。その脉状が仮りに浮滑で長を現わしているのは、陽が陰に乗じているからです。このように陰脉が竭して浮滑で長に変化するものは、脱陰です。このような状態になると、腎肝の精血が銀海〔訳注:眼〕に注がなくなるため、眼が見えなくなります。膏油がなくなったために燈光が消えるようなものです。卒中や昏倒の症状の者の多くは浮滑で長の脉状を現わしていますが、これもまた脱陰です。


私は思うのですが、見えないものが見えるということは太過です、陽には進むという性質があるからでしょう。見えるべきものが見えなくなるということは不及です、陰には退くという性質があるからでしょう。つまり、この両者は陰陽の真が現われている状態とも考えられますから、ともに危険な徴候であると言えます。


問いて曰く。陰陽が重畳するものに対して狂と癲とだけを例にあげている理由は何なのでしょうか。

答えて曰く。狂と癲とは神の病です。そもそも陰陽が偏ることによって起こった病変というものは、その初期には形が犯されますが、長期にわたると神が冒されるようになります。陰陽が重畳するときにはすでにその病情も悪化していますので、すでに神が傷られていることになるわけです。


また問う。神が傷られるということで病状が深いと判断するのであれば、死の床についている人は皆なその神が乱れていなければならないと思います。けれどもその神は正しいまま斃れる人がいるのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。神が正しいまま斃れて死ぬ人は、形気が偏絶した人です。形は健康であるのに死ぬような人は、神気が偏絶した人です。ともにここで語っている陰陽が偏勝してさらにそれが重畳した人ではありません。陰陽が偏勝してさらにそれが重畳するということは、陽が偏勝してそれがさらに重畳してはいても陰はまだ絶えてはおらず、陰が偏勝してそれがさらに重畳してはいても陽はまだ絶えていないような状態のもののことです。


問いて曰く。陰陽の脱証を説明するのに、ただ眼が見えるかどうかということをその根拠として語っている理由は何なのでしょうか。

答えて曰く。眼目は人体において昼夜の役割をしているものです。眼目が開く時は昼とし、閉じる時は夜とします。人は生きて活動していますから、目を開いている時はそれが夜であっても昼として活動し、目を閉じている時は昼であっても夜のような状態となり、天の運行とは相応しません。しかしよく考えてみると、天地の陰陽はこの昼夜にこそもっとも著明に現われています。《易》にも『死生の説を理解して、昼夜の道に通ずる』とありますから、この眼目を陰陽死生の枢要とするのは、まさに当然のことと言えるでしょう。ですから、目が見えるかどうかということによって陰陽の脱証の判断の基準としているのです。



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