第 三十九 難

第三十九難




三十九難に曰く。経に、腑には五種類あり、臓には六種類あるとあるのはどうしてなのでしょうか。


六腑をかえって五とし、五臓をかえって六とするとある、その説の意味は何なのでしょうか。






然なり。六腑は正しくは五腑あるのです。五臓にまた六臓あると言っているのは、腎の両臓のことを言っているのです。


六腑は形があるものを「正」としますので、五あるとするのが正しいのです。形がないものは「奇」として除くわけです。〔訳注:三焦は無形なので除き、五腑として考えるのが正しいという意味〕五臓を六とするのは、腎を分けて二つとしているのです。水は万物の基ですから、卒土〔訳注:国土〕の外を海水とし、卒土の下を黄泉とします、これがすなわち鹹悪と甘美の分かれる所です。また、万物が生ずるのは水気により、万物が死ぬのは泉下に帰ることです、つまり水は生死の舎なのです。このような意味から、腎を五臓の根として、人身における生死の繋がる場所であると考えるわけです。腎は生の始めとなりまた終わりともなりますので、二種類の用があることになります、ですからその体も二つなければならないわけです。






その左を腎とし、右を命門とします。命門は精神の舎る所です。男子はここに精を蔵し、女子はここに胞を繋ぎます。その気は腎と通じますので、臓に六種類あると言っているのです。


腎と命門とは二種類のものですけれども、その気は互いに通じていますので当然一つのものと考えます。精神が出入する舎ですから、命門と名づけています。男はここに種子の精を蔵し、女はここに子宮の胞を繋いでいます。当然、白精と赤血とが寓する場所です。また育胎する〔訳注:妊娠する〕ということは、自分の身体と子供の身体と二重の身体になることです。これもまた偶物〔訳注:偶数のもの〕であって坎の象〔訳注:水の卦:上下の陰爻の中に陽爻が挟まれている象〕にならうものです。


問いて曰く。六腑というとき三焦を加えて六としているのですから、六臓というときもまた心主を加えるべきなのではないでしょうか。それなのに反って腎を加えている理由は何なのでしょうか。

答えて曰く。精神の主を心主と名づけ、精神の舎を命門と呼んでいます。ですから命門はすなわち心主の舎なのです。その舎を語っているということは、主人はその中にいることになります。






腑に五種類ある理由は何なのでしょうか。


上の答はまだ五腑の理由について言及していませんので、ここで聞いています。






然なり。五臓にはそれぞれ一腑があります、三焦もまた一腑ですが、五臓には属していません。ですから腑に五種類あると言っているのです。


五臓のうち、肺は大腸に配し、心は小腸に配するというように、それぞれに一腑が配当されています。三焦は外孤の一腑ですから五臓には配当されていません。五腑に連ねて考えるときは三焦を加えて六腑としますが、もし六腑として並べないときはただ五腑あるだけです。


問いて曰く。臓腑が五種類あるとしたり、六種類あるとしたり、一定していない理由は何なのでしょうか。

答えて曰く。数は一から生じ五に終わりますので、五という数はあらゆる物の紀〔訳注:基準〕となります。五は一を加えることによって六になりますから、六は五の変数であると考えることができます。このように考えると、五は常であり六は変であるということになります。この五と六とは天地の中数であり、ここに常と変とを兼ね具えていることになりますから、五に集約させたり六に集約させたりすることによってあらゆる物の紀数〔訳注:基準となる数〕を普遍的なものとして語ることができるのです。六は変数ではありますが、陰の数ですからかえって数そのものの体となっています。



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