第 四十六 難

第四十六難




四十六難に曰く。老人は臥して寐ず、少壮は寐て寤めない理由は何なのでしょうか。


第十九難では、男女の別を明かにしました、ここでは老少の違いについて論じています。臥すということは体を委ねるということであり、寐る〔訳注:寝る〕ということは神を安んずるということです。老人は体が衰え神が疲れています、臥しても寐にくいわけです。老いるということも人の変であり病と同じように考えます。






然なり。経に、少壮のものは血気が盛で肌肉が滑らかであり、気道が通じているため栄衛の運行が常を失っていない、とあります。ですから昼日は精であり、夜は寤めないのです。


血気盛なものは身体の内部が充実しています、肌肉が滑らかなものは身体の外部が充実しています。気道が通じているものは三焦の道路に渋滞がありません。栄衛が常態を失っていないものは経脉がよく営周しており、休息することがありません。また、気道が通じているときは血気が盛であり、栄衛がよく周っているときは肌肉が滑らかです。少壮〔訳注:壮年までの人〕は陰は平であり陽は秘されています、ですから昼は陽が健やかで精も純で倦むことがなく、夜は陰が充実してくるので神魂を収持して散ずることがありません。これが少壮の無病の人の状態です。けれどももし病になると、少壮の人であってもこのような平常の状態ではなくなります。






老人は血気が衰え、肌肉が滑らかではなく、栄衛の道が渋滞しています。ですから昼日は精であることができず、夜は寐ることができません。


老人は内外ともに充実していませんので、少壮と反対の状態となります。もし天機〔訳注:寿命〕にまだ有余がある人は老いてはいても少壮のような状態です。このように老人と少壮との血気の盛衰の相違を見ることによって、脉にもまた老人と少壮との違いがあるということを理解することができます。老人の多くがその脉状が大なのは、血気が浮散して沈重ではなくなっているからであり、少壮の多くがその脉が柔弱なのは、血気が和緩であってこれを胃気が包涵している〔訳注:包み込んでいる〕からです。少壮は陽に属して順であり、老人は陰に属して逆です。ですから老人の皮膚が凍った梨のようなのは、その脂膏が乾燥してしまっているからであり、皺している〔訳注:皺が多い〕のは水精が散布されていないからであり、目痠〔訳注:目がどんよりとして暗く〕重聴する〔訳注:耳が聞こえ難い〕のは清陽が減却しているからであり、鬚髪が黄白になるのは陰精が焦枯しているからであり、牙歯が脱落するのは骨髄が固まらなくなっているからであり、涕涙が出て涎が流れるのは津液が収まらなくなっているからであり、手が振え脊が跼(かが)〔訳注:背中が曲がってくる〕のは筋骨が萎縮しているからであり、上が重く下が軽くなるのは陰陽が升降しなくなるからであり、言語が度を失する〔訳注:適切にに出てこない〕のは神智が昏くなっているからであり、命令が鄭重な〔訳注:しつこく繰り返される〕のは心気が恍〔訳注:恍惚:ぼんやり〕となっているからであり、物事をなすのに急ぎすぎるのは意志が鎮静ではなくなっているからであり、進むことも退くこともすばやいのは精力が完固ではなくなっているからです。このような状態は全て逆候であると見なければなりません。また涕泣については四十九難の下に詳らかに論じています。


問いて曰く。老境のものの多くは腰踡する〔訳注:腰が曲がる〕のはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。腰は腎の府であり、腎は冬です。老人は陽気が下っている状態であり人身の秋冬になります、ですから踡縮の陰象が腎部に現われるのです。小児は人の春に象り、陽気が升って踊躍する状態ですから、これを観察することによって理解を深めていくことができます。


問いて曰く。老人の頭髪には禿げるものと白くなるものとがあるのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。上熱する場合は頭脳が乾燥して髪が脱けます、瘠地には草木が生じないようなものです。下熱する場合は髪液が焦枯して自然に白くなります、草木が枯槁する〔訳注:枯れていく〕ようなものです。ですから禿髪のものには心病が多く、白髪のものには腎病が多くなります。


問いて曰く。老人の眉が長く秀でているのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。眉は目の上彩であり、肝木の精華です。ですから発生の気に有余があるものは眉毛が秀でてきます。これを長寿の徴としますが、本当のことです。


問いて曰く。もしよく食べていても老人の血気が徐々に衰えていくのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。一盛一衰は天の道です、どのような物事であっても長期にわたると変化していきます。老いるということも少壮から変化したものです。ですから飲食が少壮の時から変化していない場合であっても、かえってそれによって小便頻数や大腸の腑が結燥する等といった疾患を生じ、皮膚毫毛を充実させることができなくなり、日々衰えていきます。これは花や木を切って水に活けた時に、水でこれを養ってもその根がないために日々萎えていくようなものです。このように腎間の真根が衰えていく時は、飲食によって養おうとしても、その人は日々衰えていくしかないです。


問いて曰く。老人によっては形が衰えても智恵を加えていくものがあるのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。形は盛衰から免れることはできませんが、神は盛衰とは関係がないからです。そのため長期にわたって工夫し習熟すると、神と道とが合して妙用をなします、ですから高年のものは智を自然に蓄えているものです。老いてその神智が衰えるようなものは貪求の徒〔訳注:貪欲に求めてきた人〕であり、神が外馳〔訳注:外に拡散〕して耗散してしまっています、ですから神が形とともに衰え、終には恍忘の患〔訳注:老人性痴呆症〕を生ずることになるのです。


問いて曰く。古伝に、老いに至っても童顔のような状態で、長生きして死ぬことがないとありますが、このようなものをどのように説明するのでしょうか。

答えて曰く。道家に錬神修養の法があります。形神はもともと一つであり、神が完全であれば形もまた完全です。不老長生している人は修用するさいに神を中心にすることによってその道を得たものです。また神を労すると気が散じ、気が散ずると形体が充実しませんから老形を現わすことになります。ですから少壮の者に老態が現われている場合もまた、大労によるものです。不死ということをよく言いますが、生ずるものは必ず滅びるものですからもとより不死の理はありません、庸人〔訳注:凡人〕が神仙の人の非常に長寿なのを見て不死と言っただけです。また、神人の寿〔訳注:寿命〕は天地と斉しいという言葉がありますが、これは造化を奪うことによって神用が極まりなくなったもので、智性即色〔訳注:智性がそのまま肉体として現われ〕・色体即智〔訳注:肉体がそのまま智となる〕という色心不二の〔訳注:肉体と智とが密接不可分になった〕ものですから、そこにどうして生死の相があるでしょうか。






ですから老人は寐ることができないのだということがわかります。


この難では、血気の変を主とします。ですからただ老人だけをあげてこれを結んでいます。


問いて曰く。人によっては、よく寐る〔訳注:寝る〕ものと、よく寤る〔訳注:覚める〕ものがあるのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。陰が勝つときは寐ることが多く、陽が勝つときは寤ることが多くなります。ですから虚寒の人は昼もまた寐、煩躁の人は夜もまた寐ることができません。また心肝の陽病で狂癇等の症状のものは寐ず、肺腎の陰病で沈昏等の症状のものは寤ません。神気が心に出るときは寤め、腎に入るときは寐ます。もし憂結している人は気が集まり陽が盛になりますので寐ません、怠慢な人は気が散じて陽が衰えるため寤ません。これはその大旨をあげてみました。



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