第 五 難

第五難




五難に曰く。脉に軽重があるとは、どういうことなのでしょうか。


軽重は診者の手で按ずる加減であり、浮沈は脉状そのものです。軽は陽であり、天に象り浮脉を診ます。重は陰であり、地に象り沈脉を診ます。この難では、縦に五臓を診察する方法を述べ、十八難では横に五臓を診察する方法を述べています。縦横の経緯によって、脉法を究め尽そうとしているわけです。






然なり。初めて脉を持つときは、三菽の重さであるようにし、皮毛と相い得るものは肺部です。六菽の重さであるようにし、血脉と相い得るものは心部です。九菽の重さであるようにし、肌肉と相い得るものは脾部です。十二菽の重さであるようにし、筋と平なるものは肝部です。これを按じて骨に至り、指を挙げて来ることが疾いものは腎部です。


「初めて脉を持つとき」とあるのは、診脉をする際の方法を語っており、始めは軽く按じて診脉し徐々に重く按ずるようにするということを意味しています。経文では仮りに菽法を設けて按ずる際の軽重を分けています。具体的な診方としては、皮毛から骨に至るまでを五層に分けて診脉していきます。後人がこの菽法に拘わることを恐れて、骨に至る部分の菽法はあげていません。これは扁鵲公の細かい心遣いです。


五臓のうち上にあるものの気は上部に出ます、中にあるものの気は中部に出ます、下にあるものの気は下部に出ます。五臓の最上に位置するものは肺です、次が心で、中に位置するものが脾、下は肝で、最も下に位置するものが腎です。このように五臓の気は五部に現れ、五段階に分けることができるのです。そもそも寸口というものは朝庭〔訳注:君主と諸侯が会合して政策を決定した場所〕であり、五臓の各々がその本来の場所にあるということは、諸侯が封国〔訳注:君主によって領土を与えられた諸侯の領地〕にいるようなものです。脉として寸口に朝する〔訳注:集まる〕ということは、諸侯が皇帝の宮殿に朝するようなものです。朝庭ではその朝する五臓の各々をそのしかるべき位置を定めて待つわけです。ですから五部は五臓の官府であるということができるでしょう。官府の場所を五段階に定めて五臓の気がそれぞれそこに通ずるとしたのです。このように五臓の気に階級があるならば、五臓の形にも階級があります。高気は上に通じ、卑気は下に通ずるということは、自然の道です。五部は五行が人身に対して現われたものですので、五臓がそれぞれ脉を分割して主るということは当然のことです。


皮毛は皮膚毫毛のことです。皮毛は白色で堅固であり、血液を裹んで泄らしません。風雨の侵襲に対してもよく防御することができ、金気が生ずる場所です。血脉は赤色で條分〔訳注:筋となった分かれ道〕があり、太陽の運行のように常時運動しています。この火の精は全身を暖めます。火気が生ずる場所です。肌肉はすなわち厚重で柔軟で、皮脉筋骨が依存する場所です。土気が生ずる場所です。筋絡は青色で旁行し、よく屈伸して風の出る場所、木気の生ずる場所です。よく言われれている風が出るとは、手を揺して風が生じ、飛走して風が生ずるという類のことです。骨髄は水精の凝る場所です。人身の精液は骨髄によって全身に循ります。水は本来は色がないものですので、黒色であると言います。黒色は幽暗〔訳注:かげろうのような暗さ〕で色がありませんので、水はそれを入れる容器の色を自身の色とし、自身の本来の色というものをもちません。また水が凝集して形をなすときは、その母の色〔訳注:水の母は金なので白色〕を呈します。骨が白色であり、氷雪の類も白色であるのはこのためです。これを按じて骨に至り、来ること疾きものとあるのは腎中の生気のことです。疾くない場合は腎気が衰えているということが判ります。生気は人身の根であり、その根が損なわれるときは、枝葉も充分に茂ることはできません。そのため生気を見るということは最も重要なことであると思います。私の師は語っています、「指を挙げると疾いという状態とは、手の中に魚を掴んだときのような感じです、手を少し緩めると魚はすぐ逃げようとします。」と。けれども、魚が疲れてくると逃げようとしても疾くは動けません、人も衰えてくると腎脉は疾くなくなります。越人扁鵲を脉の祖であると讃える理由は、ただこの腎間の生気を尊ぶためなのです。






ですから軽重と言うのです。


文を結び、最初の問に合わせています。



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