第 六十九 難

第六十九難




六十九難に曰く。経に、虚するものはこれを補い、実するものはこれを瀉す、虚せず実してもいなければ経をもってこれを取るとありますが、これはどういう意味なのでしょうか。


虚実の補瀉は五邪を治療するものです。経を取るものは正病を治療するものです。






然なり。虚するものはその母を補い、実するものはその子を瀉します。先にこれを補い、その後にこれを瀉します。虚せず実してもいなければ経をもってこれを取るのは、正経が自ら病を生じているもので外部からの邪にあたっているものではありません。ですから自身の経を取るわけです。ですから経をもってこれを取ると言っているのです。


源が深ければ流れも長くなります、ですから母が満腹の状態であれば子供を充分に養うことができます、この母を補おうとするときはその根を培うようにします。毛が落ちれば皮が竭します、子供が飢えれば母にその食を強く求めるために母は痩せます。この子を瀉そうとするときはその標を奪うようにします。実は邪気の実であり、虚は正気の虚です、先に正気を補って後で邪を去るようにすると、正気が盛になって邪気が衰えます、ですから治し易くなります。もし正気が虚していることに気づかずに邪だけを取り去ろうとすると、邪も充分に除くことができず正気が先に痩せることになります。これでは何をしているのかわからなくなります。補を先に行なって邪を取り去ることを後にするという金言は、一瞬も忘れてはいけません。この方法は私も数々試みて多くの治験を経験しています。けれども実際に病床に臨んでこれを実践するのは難しいことです、輪扁〔訳注:平たい輪〕で輪を斬ろうとするような感じです。これは治法について言えるだけではありません。

古代の皇帝である禹が、三苗族の征伐に行ったとき、彼は自分の領土に帰って徳を修めるようにしましたが、これは正気を補うということになります。万里の長城を築いて匈奴〔訳注:モンゴル民族などの北方遊牧民族〕を討伐し、中原〔訳注:中国国内の中心部〕の財産を使い尽しましたが、これは邪を瀉すということになります。正気を補うということは人民を養うようなものであり、邪を瀉すということは軍隊を動かすようなものです。人民を養うこともなく軍隊を動かしているのでは、日なくして国は亡び去るでしょう。

補の道を理解することなくただ瀉法だけを行なっていては、暴絶の災いが起こる恐れがあります。用心しなければなりません、慎重の上にも慎重に治療を施さなければなりません。正経が自ら病んでいるものは、その病が一経に留まっているわけですから、静であり陰に属し、その病勢も緩やかです、虚実どちらにも偏らず虚しても実してもいないと述べられているわけです。これは正経が病を生じたものであって、他邪に関係しません、ですからただ正経だけを取ってこれを治療するわけです。他邪に中(あた)ったものは、生剋・間甚等のさまざまな変症が現われます、ですから動じて陽に属し、その病勢も暴〔訳注:急〕です。この病証には虚実があり治療法として子母の補瀉を行なわなければならない理由がこれです。


問いて曰く。諸病には皆な虚実があります。正経の病だけには虚実がないのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。介爾〔訳注:小さな子供〕であっても病があれば虚実が必ずあるものです、ただ微甚の違いがそこにあるだけです。子母の虚実は大紀〔訳注:大原則〕です、たとえば昼は陽・夜は陰と言うようなものです。正経の虚実は小節〔訳注:小原則〕です、子は陽・丑は陰と言うようなものです。このため子の時や丑の時を昼夜に対して語るときは、陰陽関係としては把えません、ですから虚せず実せずと述べられているのです。また正経が自ら病むということは一室が災いにあっているということであり、他邪によって虚実が引き起こされるということは、敵国の外患によるものであると言うことができます。ああ、外患にあうということはなんと深い災いなのでしょうか。他邪によるものか正病であるかということには、そこに大小軽重の違いはありますけれども、敗滅に至る危険があるということではしかし同じことです。ですから共に軽んじないよう注意してください。



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