第六難の検討




一難では、寸口に全身の状態が現れる理由を、呼吸との関連で明らかにし、

二難では、その寸口を横に尺寸の陰陽の観点で診ることを明らかにし、

三難では、横の病脉を太過不及関格覆溢という概念から明らかにし、

四難では、その寸口を縦に浮沈の陰陽の観点で診ることを明らかにし、
      さらに、五臓の弁別への示唆
      六脉という病脉の提示をし、

五難では、縦に五臓を分かつという考え方もできるということを明らかにし、 六難では、浮沈の病脉を陰陽虚実として提示しています。

いちおう、寸口の部位を、縦(浮沈)横(尺寸)という陰陽の観点から立体的に診ていくための位置関係が、これで語り尽くされたことになります。







この難以降はさらにその応用となりますので、ここで、その縦横の関連をまとめておく必要がありましょう。

寸口の部位に全身の生命力が現れており、その一元の気をみていく上で、位置関係から、寸位が陽、尺位が陰、浮位が陽、沈位が陰と考え、寸位と浮位が心肺という陽臓、沈位と尺位が肝腎という陰臓を診る場所として配当し得るということが示されました。四難の読み方は一つの大きな別れ道になりましたね。

これらはすべて、五臓の問題として述べられているということに、注意が必要です。







つまり、一元の気としての(寸口に現われる)生命力を、はじめに陰陽として分析的に診ることが提示されていますが、その診方には、縦横の発想が入りより構造的な立体的な陰陽の診方に変化していきます。

次に、一元の気としての(寸口に現われる)生命力を、陰陽からさらに五臓へと、その診方をより細かなものとしていく視点が提示されているわけです。五という分割の始まりですね。しかしそれは、一元の生命力を診るために「仮に」五つに分けられたものであり、一元の気の動きを陰陽という観点から把握し提示していることを細分化させただけで、その間に大きな思考法の飛躍はないとも言えます。これが大切なことなのですね。







《難経》の著者は、ことさら寸口での脉診を推薦してはいますけれども、寸口の脉診に拘泥し、あるいは寸口の脉診に安住して、全身の状態を診ることを怠っているわけではないということは、ことあるごとに呼吸との関連を提示していることからも明らかでしょう。







徐霊胎はその《難経経釋》で、六難では、四難で述べられている『陰陽の法とは異なります。上文で言うところの陰に属し陽に属すというのは平脉です。ここでの陰分の脉、陽分の脉というのは、太過不及を意味しており、病脉です。』と述べていますが、その通りであると思います。

このあたりのことを《難経鉄鑑》で広岡蘇仙は、『三難と五難ではこの陰陽の浮沈の法則を述べる際、広く大きく述べています。この難では浮沈虚実の法則を述べる際、簡略に述べています。片方では博くもう片方では簡約に述べることによって、陰陽の蘊奥を尽そうとしているわけです。 』と表現しています。

陰陽の大きな動き、太過不及から関格覆溢へ死に致るまでの脉状の大きな変化を三難で述べ、病脉としての微細な陰陽の関係をこの六難で述べているというわけです。







しかし、徐霊胎は、四難において「浮」「沈」という文字を浮脉沈脉として理解していたのと同じように〔注:このことは四難の解釈のところに詳しく説明されています〕、この六難においてもまた、「浮」「沈」を浮脉沈脉として理解しているようにみえます。それは次の解釈文に表れています。『浮脉は陽を主り、沈脉は陰を主ります。損傷とはすなわち気血の衰えであり、実大とはすなわち気血が盛んな状態のことです。』

つまり徐霊胎は六難の原文を『浮脉の損小、沈脉の実大を、陰盛陽虚といいます。沈脉の損小、浮脉の実大を、陽盛陰虚といいます。』と読んでいるわけですね。これは、原文の、『浮之損小、沈之実大、故曰陰盛陽虚。沈之損小、浮之実大、故曰陽盛陰虚。』という文言の中の、

1、『之』という字句を、他の解釈家のように寸口の脉状を指し示す「これを」とは読まず、助詞の「の」と読み、

2、『故』という字句の意味を軽視し、

3、浮位沈位の陰陽関係で一つの脉状を述べているのではなく、浮脉沈脉というそれぞれ独立の脉状の虚実を述べていると解釈することによって、

4、『故』という接続詞で次に続いている、『陰盛陽虚』『陽盛陰虚』という文言によるまとめの意味を見失うこととなっています。

ここは、浮位と沈位との陰陽関係を述べていると解釈することによってはじめて、一元の気の陰陽虚実の変化といったものが見えてくるところですので、徐霊胎の解釈はいかにも浅いと言わなければなりません。

四難と異なりこの難では、徐霊胎以外の解釈家は滑伯仁をはじめとして現代中医学まで皆な、この難は脉の浮位沈位を意味するものであると解説しております。この部分に関しては徐霊胎の完敗というところですね。徐霊胎にはどうも、浮沈という文字をみると浮脉沈脉という脉状として解釈してしまう癖があったようですね。







しかし徐霊胎の上記の文言の中には一つ重要な言葉があります。それは、『損傷とはすなわち気血の衰えであり、実大とはすなわち気血が盛んな状態のことです。』という言葉です。

損小と実大の中味について論議している書物はイメージが浮かびやすいのであまりありません。

しかし、《難経鉄鑑》には、『「損」とは、虚耗して実を失っているものです。「小」とは、減小して大ではないものです。「損小」は不及であり。「実大」は太過です。』と述べられており、また現代日本の本間詳白による《難経の研究》には、『実は邪気実であり、損小は正気の虚である。』と述べられています。

それぞれのニュアンスの違いを理解できますでしょうか。

徐霊胎と広岡蘇仙の方はともに、気血の衰盛虚実を述べているだけですが、本間詳白は気血という正気のほかに邪気を想定し、ここにその概念を導入しています。これはたぶん、定型的な観念である、虚は正気の虚を意味し実は邪気の実を意味しているという考え方からきているものでしょう。







このあたりのことは、生命という器を想定してみるとよく理解できると思います。器の中には生命力が満たされています。その生命力のダイナミズムを眺める中から陰陽という言葉を用いることが始まりました。海の波が押し寄せるのを陽、引いていくのを陰。器の中心部分を陰とし表面部分を陽とし、その相互の充実度合を眺めていく。衰盛虚実という言葉の中にはこの、人という生命の器の中でとりおこなわれている生命力のダイナミズムが包含されています。

邪気という言葉の中には、この生命のダイナミズムを損傷させるエネルギーという意味があります。それが非常に強い場合には生命の器を破壊してしまう〔注:死に至る〕こともあります。

この難では、このような邪気についてまで述べようとしているのでしょうか。そこまで語ることは、想定されていないというのが、私の理解です。《難経》原文ではまだそのようなことについては触れられていませんものね。「邪」という文字が「守邪の神」という言葉で出てくるのは八難からです。







広岡蘇仙は、『私は思うのですが、脉の浮沈全てが実大のものは、陰陽ともに盛で邪気が甚だしいもので、浮沈全てが損小のものは、陰陽がともに虚していて正気が痩せているもの』であると、この難の最後の方で述べています。

この文言は、本間詳白の『実は邪気実であり、損小は正気の虚である。』という文言とは大きな相違があります。〔注:『実は』とあるのは、実大はの間違いでしょう〕

本間詳白は、浮沈の相互関係を述べているところで邪気の実、正気の虚を語っているのに対して、広岡蘇仙は、浮沈ともに実、浮沈ともに虚という脉状を《難経》から離れて想定し、それについて語っているものです。新たにもう一つ大きな概念を提示しているわけですね。さすが!という感じであります。







2002年 3月24日 日曜   BY 六妖會




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