扁鵲とその時代
さて、扁鵲という人の人となりは、司馬遷による中国の歴史書《史記》の中の、《扁鵲倉公列伝》に述べられています。司馬遷が《史記》を著したのは、前漢時代の最盛期、紀元前90年頃とされていますから、扁鵲の伝説は、500年以上の時を超えて生きつづけていたということを意味しています。これは、もし事実が含まれているとしても、かなり誇張されている可能性があるということを踏まえておく必要があるということを意味しています。いかに名医であっても、室町時代の伝説が現代のわれわれに伝わっているのかどうかということを考えてみるとよく理解できるのと思います。当時は印刷技術などもなかったのですから、なおさらです。
さて、《扁鵲倉公列伝》によると扁鵲は、斉の桓公〔注:紀元前643年没〕の望診を行い、その死期を断じていますから、その前後に生きていた人ということになります。
扁鵲が生きていたその当時は、どのような時代だったのでしょうか。
そのことを考える前に、中国史をざっとおさらいしておきましょう。
殷代が紀元前1700年頃から興り、紀元前1070年頃に周に亡ぼされるまで続きました。殷王朝は、奴隷制国家でした。西国の異民族、羌族等と争い、捕えたものを農耕奴隷としたり、牛や羊や豚とともに神への貢物としていました。現代考えられる国家とは違い、数十人程度の血族関係による集落が黄河中流域に集まった、都市国家のようなものであったと考えられています。殷人は太陽崇拝と祖先崇拝が王朝としての祭祀の中核に据えられた、骨卜占いの文化をもっていました。
殷周革命によって、殷の王朝が異民族である周に乗っ取られたのが紀元前1070年頃です。王朝交代によって、支配民族が変わり、ほころびの見え始めた奴隷制を、ふたたび確固とした基盤の上にととのえなおしました。また、周代からは封建政治が始まります。これは、功績のあった臣下に「周辺の土地」を与え、その地の支配者として治めさせるものです。
この「周辺の土地」は次第に周の支配地域外まで及ぶことになりました。封建領主は武力をもって、周の国から見ると周辺の異民族と抗争しながら、その支配領域を広げていったわけです。後の斉の桓公が登場する斉の地が太公望呂尚〔注:羌きょう族の指導者で殷周革命で非常に高い功績があった〕に与えられたのも、このような形によるものでした。
王国としての周が周辺の土地を功臣に分け与えていくにしたがって、分け与えられた地で異民族と戦わざるをえなくなった封建領主たちは、富国強兵を強いられたために次第に実力〔注:生き延びるための力〕をつけることになります。また、周辺の異民族も封建領主との戦いによって力をつけ、いわゆる中原に覇をとなえる勢いをもつにいたったものもありました。
相対的に周の王朝そのものは弱体化していくわけですが、秦が中国全土を統一する紀元前238年まで、周代は続いた事になっています。封建領主が乱立して自らの力を発揮していた戦乱の時代〔注:春秋時代。始まりのころには二百数十ヶ国あった〕を経て戦国の七雄〔注:秦・燕・楚・斉・韓・魏・趙〕が割據する戦国時代へと、国として強大化するとともに、時代が移行することになります。
この春秋時代には、大きな文化的革命が起こりました。
その一つは、鉄器の使用が始まったことです。これによって、農耕面積が拡大するとともに開墾や水利事業の効率が飛躍的に向上しました。これは、今までの血縁関係で成り立っていた農村社会の崩壊を呼び起こすことになります。より規模の大きな集団を構成することがそのまま生産力の増大・経済力の増大・国力の増大につながるという側面と、農耕そのものは少人数でも営むことができることから、小家族を単位とする社会へと移行していくというふたつの側面をもっていると考えられます。
このような鉄器の流通を支えるものとして、貨幣経済が発展してきます。これが普及したのはおそらく戦国時代に入ってからであろうと考えられています。
貨幣には文字を書き込みますので、それまで、王や支配層が神々への接点として占有してきた文字が、一般庶民の目にも触れるようになってきました。文字は地方によって独自に発展し、それぞれの地で広く深く使用されるようになりました。度量衡と文字とは秦代に入って統一を図らなければならないほどに多様性をもつことになったのです。〔注:このため、焚書坑儒が行われたと考えられています。〕
そして当然のことながら、文字の使用が広まることによって、思想家が輩出されることになるわけです。中でも孔子は、中国史上初めて学園を作り、多数の子弟を教育しました。いわば、文字文化を貴族の手から庶民の手にわたしたはじめての人が、孔子であったわけです。
孔子は、紀元前551年に生まれ、紀元前479年に亡くなっています。斉の桓公の時代に扁鵲が存在したとすると、孔子をさかのぼること百数十年前であるということになります。ちなみに、陰陽説と五行説とを統一した概念として唱えた鄒衍すうえんは紀元前300年頃の人ですから、扁鵲はそのさらに300年以上前に存在したことになります。
陰陽五行説は一説によると、鄒衍より100年程前から統一して把える試みがなされていたという研究もありますが、扁鵲の時代にはまだ、陰陽説と五行説とは統一して把握されていなかったということは、《難経》を扁鵲の佚文として読んでいく上で重要な観点であろうかと思います。
扁鵲が最初にその名を顕わす斉の国の首都は、天下の物資と人があつまる経済、学問の中心としてさかえました。全国の諸子百家をあつめて有名な【稷下しょくか学宮】は、ここに作られました。
また、燕・斉とその海上の渤海湾は、扁鵲を下ること240年、戦国時代に神仙家の活動が活発だったところです。漢代に入って盛んになる黄老道は、この地域の人々が関与していると考えられます。
また、仙人としての黄帝もこの人々によって創作されたと言われています。このことは、東洋医学における最も重要な古典である《黄帝内経》が作成された時期・地域・思想的な背景を考えていく上で非常に重要な意味をもってきます。
《黄帝内経・素問》の第一章、《上古天真論篇》は、黄帝が仙人となって天に登ったという言葉から始まっているからです。書物の冒頭のもっとも重視される場所がこの言葉から始まっているということから考えると、現今の《黄帝内経》のもっともたいせつな思想は、この戦国時代の神仙家の思想を核とし、これ以降に形成されたものであると考えなければなりません。
ということは、扁鵲が《難経》の元となる考え方をまとめる際に参考にした医学書は、現在われわれが見ることのできる《黄帝内経》とはかなり異なるものであったということは、容易に想像することができるでしょう。
しかしこのことはもちろん、扁鵲が参考にした書物が、現在われわれが見ることのできる《黄帝内経》の元になったものかもしれないという想像をも否定するものではないということもまた、押さえておく必要があると思います。
この地域の求道者たちを《史記》の封禅書では、渤海沿岸の方士と呼んでいます。方士といえば思い起こすのが、秦の始皇帝が不老長寿の薬を探しに蓬莱に行かせた徐福ですが、彼の生誕の地は、斉の地の北側の渤海沿岸ではなく、斉の地である山東半島の南側の黄海沿岸であるといわれています。戦国時代の末期にはこの渤海沿岸の方士の勢力がずいぶん拡大していたのではないかと考えられますね。
そしてこの渤海沿岸の方士たちが開いた黄老道は、漢代に入って高祖(劉邦)の妻であり二代目皇帝の母である呂后によって尊崇されて広まり、後の道教の源流の一つとなっていくわけです。
2000年 2月22日 火曜 BY 六妖會