5、今に続く洗脳の理由

5、今に続く洗脳の理由






占領軍は当時、幼稚な日本人に対する教師のように振る舞いました。その振る舞い方を受け継いで、日教組やマスコミは、日本の独立後、占領軍の地位を肩代わりする形で、日本人を教育する機関として君臨する事態となりました。そのことが今に至るまで多くの国民の思想や行動を自己規制させる大きな要因となりました。

この間の事情について《大東亜戦争の本質》では次のように述べられています。









東京裁判史観が講和・独立後も根強く生き残り、特に学校教育の面ではますます増幅されたのは何故か。それは次の二つの理由があると思う。


1、共産主義(社会主義)革命を思考する強力な組織である日教組が存在したこと。革命を実現するには、過去の日本を全て否定する必要があり、そのためには東京裁判史観が好都合であったこと。


2、日本の学会、特に大学では封建的な講座制が根を張り、そこでは助手・助教授を任命したり、昇格させる人事権をボス教授が握っており、そのためそのボス教授の学説に反対することは、人事の上で大きな不利益を蒙る危険があったこと。






日本近・現代史学会でもそれは同じで、特に戦後間もなく、戦争責任の追及と占領軍による公職追放を利用して、それまでの大御所を大学から追放し、若手が実権を握ったため、戦前・戦中の皇国史観から一変して東京裁判史観と唯物史観一色に染め上げられた。その若手がボス教授となり、大御所となっていく過程で、東京裁判史観・唯物史観に反する学説を唱える者は、主流の大学、特に官公立大学に職を求めることができず、傍流や私立大学に追われた、


その他に経済的利益をともなったことも無視できない。日教組が権勢を揮い教科書採択に大きな発言権を持っているときは、日本史の教科書も日教組の意向に沿ったものでないと売れなかった。教科書の印税は一般の単行本より低いが、発行部数が桁違いに大きいため、その印税収入も莫大だった。そこで教科書を執筆する学者は後生大事に東京裁判史観を墨守した。唯物史観のほうは、二十五年七月から始まった占領軍によるレッドパージで小・中・高校の赤い教師は大量に追放されたものの、階級闘争を主体とした社会経済史に偏重するという形で潜行した。


戦前・戦中に成人となり、あるいは敗戦時に物心ついた昭和一桁生れまでの国民は、まだ東京裁判史観に対してなにほどかの抵抗力があったが、小学校入学時に既に東京裁判史観一色で教育されてきた戦後生まれは、その史観以外に多様な歴史解釈があるという事実にさえ気付かぬことが多い。歴史的知識を持たず、判断力すら未熟な子どもに、教室で一方的な歴史観が注入されれば、オウム真理教のサティアン内でのマインドコントロール以上の効果があるだろう。




2001年8月30日

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