はじめに





日本医学の起源は必ずしも支那大陸で発祥した医学を起源としているわけではありません。それは大己貴命(おほなむち:大国主命)少彦名(すくなひこな)という日本の国作りの二神の伝説の中に、疾病治療についての記述がある(古事記・日本書紀)ことからも明らかです。けれども文字に残され伝承されたものはそのごく一部でしかなく、支那大陸における厖大な文字情報が輸入されるに従ってかき消されていきました。







さて、このファイルで明らかにしようとしていることは、

1、支那大陸における身体観が、《黄帝内経》のものから大きく変化して《難経》にいたる

2、その《難経》の身体観が仏教思想の支那大陸への伝来に基づく丹田を中心とした仏教の身体観である

3、日本医学がこの《難経》の身体観すなわち丹田を中心とした仏教の身体観に基づいている(これが腹診の日本独自の発展に繋がっていく)

ということです。







この道程をたどるためには、さまざまな挟雑物を避ける必要がありました。その中心となるものは、長い時代を経て徐々に日本に輸入されてきた医学思想をどのように考えるのかということであり、江戸時代に熟成された日本医学の個性的な発展―ことに古方派の勃興―についてどう位置づけるのかということです。

ことに古方派は、文字情報を越えて患者さんそのものの把握と治療処置とを、張仲景の腹診法に基づいて展開しているものです。文字を越えて存在そのものへと肉薄するという鬼気せまる情熱がそこにあるわけで、その同じ情熱こそが《黄帝内経》を書かせ《傷寒論》を書かせたのであろうと思います。

がしかしそれは、存在全体をどのように理解するのかという身体観におよぶことはなく、疾病治療に特化した治療技術の一端として体表観察をしているとしかみてとれないため、このファイルの対象とはなりませんでした。

このファイルは、日本古方派が「疾医の道」ではないとして軽蔑した、養生術とその基盤である丹田を中心とした身体観について述べているものです。そしてそれこそが日本医学の大きな成果であり、その大本には仏教の身体観があるわけです。







以上、情報の取捨選択について、必ずしも以下のファイルで触れていないことについて述べました。次に、以下のファイルで触れていることについて述べていきます。

このファイルは、古代の人間観の変化に焦点を当てることを中心の課題としています。それは、黄老道の探求から始まり、日本への仏教の伝来まで至ります。黄老道の歴史の正統の流れの中で《黄帝内経》が編集され、仏教の身体観の流れの中で新しい身体観を持った医学として《難経》が書かれました。ただし《難経》は仏教思想に純化されて書かれている書物であると述べているわけではありません。さまざまな当時の知識が入っています。

仏教の身体観を基礎としていますけれども、それまでの天人相応の人間観および認識論としての陰陽五行論、そして後漢における新しい思潮としての讖緯学説についても、大きな視点から触れられています。その中でもっとも大切なもの、骨格となるところが臍下丹田を中心とする身体観でありそれが、仏教の身体観なのです。

これは日本においては、日常の所作や茶道や武士道において大切にされているところです。いわゆる「肚の身体観」とでも言うことができるでしょう。日本医学はここに向かって浄化されここに定まって豊かになってきたものであると私は考えています。そしてこれは21世紀に生きる我々の生活の質の向上に深く強く資するものとなります。このファイルはその歴史的な基礎を述べているものです。









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