《難経鉄鑑》の時代



ということで、必然的に、《難経鉄鑑》が書かれた時代の思想風景が描写されなくてはならなくなりました。以下に続く序文などを読んでみても、著者、広岡蘇仙は、日本という国家意識を古事記・日本書紀にさかのぼる形で、しっかりと持ち合わせていると理解されるからです。





広岡蘇仙は、元禄時代の中期に河内で生まれました。そして、元禄時代が終わり、新井白石等による政治が行われている時期1713年に京都へ遊学しました。その当時の京都は、元禄文化の残香の立ち上る町人文化の華やかなりし町でした。





元禄時代は、幕府による管理貿易〔伴注:いわゆる鎖国〕が行われていました。しかし、貿易量の制限などはなされていませんでしたので、国内産品である金銀銅が大量に海外に流出しました。そのため、国内における貨幣を鋳造するために確保できる貴金属の量が減少したので、幕府は貨幣の改鋳を行いました。これは、貨幣価値を貶めることになり、物価が高騰、市場に流通する貨幣の量そのものが増加し、いわゆるインフレ状態となりました。このことによって、目端の利く商人などが貨幣の流通を支配することによって蓄財し、多くの富豪が誕生したわけです。

彼らは、文武両道を独占していた武家社会のパトロンとなることによって、その文化を商人階級に移入していきました。

広岡蘇仙が京都に遊学した当時、すでに京都は学生の町としても栄えていました。当時の京都は学問の中心地で、多くの学者が私塾を開いて学生を集め、多数の寺子屋がありました。諸国からは京都で学ぶことを京学と呼び、帰国すると藩による特別な待遇が待っているほどでした。

広岡蘇仙はそのような場所に遊学したわけです。





これら私塾の中には、近世江戸朱子学の祖である藤原惺窩せいかから林羅山→松永尺五→木下順庵→新井白石→室鳩巣きゅうそうという赫々たる系譜を誇る講習堂がありました。講習堂は、明治に入るまで江戸時代の正統派朱子学として、東堀川二条南で運営されていました。ここに集う人々は、詩文や博識を重んじ、比較的自由な学風を保ち、京学派と呼ばれました。この京学派の人々は、幕府の御用学者としても多く採用されました。


また同じ朱子学ですが、大義名分を重んじ出処進退に非常に厳しくて、あたかも朱子学という「道」を歩もうとした山崎闇斎あんさいの流派も、同じ京都に拠点を置いていました。彼らは、読むべき書物を限定し、師説を絶対として他の師につくことを許しませんでした。山崎闇斎→浅見炯斎けいさいのこの学統は幕末まで継承され、尊皇攘夷の運動に一役をかうことになりました。彼らの私塾は堺町二条にあり、望楠軒書院〔伴注:楠正成を尊崇していたため〕と名づけられていました。

この山崎闇斎は後に吉川神道の行者と太極について論争し、論破されるに及んで神道の思想に開眼しました。そして当時の神道思想を集大成して、後に述べる垂加神道を作り上げました。この垂加神道は、神道の世界において他を寄せ付けないほどの隆盛をみることになります。


山崎闇斎に対して、子供の言葉であってもそこに真理があれば耳を傾けるという、きわめて謙虚な学問研究の姿勢を貫いた伊藤仁斎は、同じ堀川で後に古学と呼ばれることになる学問を打ち立てました。一種の共同研究会としておこり、後に私塾となった古義堂において、仁斎の探求はその死に至るまで続けられました。仁斎がその生涯をかけて何度も何度も書き改めた原稿をまとめあげて出版したのは、息子の東涯になってからでした。

この古義堂は、明治時代末期の1905年まで存続することになります。





また、私塾ではなく無料で行われる講話という形で教えを広めた人に石田梅岩がいます。彼は儒教や仏教を学んで独自の人生哲学を編み出し、それまで貶められていた商人の社会的な価値を明らかにしました。正道の商法(正直・勤勉・質素倹約)こそが繁盛の条件であると説いた石田梅岩(1685年~1744年)の学問は、石門心学と呼ばれることになります。彼は広岡蘇仙とほぼ同時代を生きた人です。石門心学は江戸時代を通して、商人や武士の間で非常に強い影響力をもつことになります。





さらには、尊王という形での国学の基礎を担った者に、神道の研究家であり京都の伏見稲荷の神主の子として生まれた荷田春満かだのあずままろ(1669年~1736年)がいました。彼は、1702年の赤穂浪士の討ち入りに側面から援助したと伝えられています。





漢方家としては、後世、古方派の祖と呼ばれることになる、名古屋玄医(1628年~1696年)がいました。名古屋玄医は、朱子学を治め、東洋医学の古典を読み解き、傷寒論の処方を実地に試すなかから、傷寒論が治療において非常に有効であることを確認していきました。彼はその《難経注疏》(1679年著)の序文で、『仲景は、方の祖である。その書はみな難経、陰陽大論より方を立て法を説き、それによって、すべて陽を助け陰を抑えることをその心としている。』と述べ、難経を高く評価しています。

また、杉山和一が関東総検校となり、鍼灸が盲人の職業として定着し始めたのは、1694年からのことです。





このような思想の揺籃期に広岡蘇仙は京都で遊学したわけです。





2000年 4月15日 土曜   BY 六妖會


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