第 七十八 難

第七十八難




七十八難に曰く。鍼に補瀉があるとはどういう意味なのでしょうか。


治法の補瀉については、前の諸難に詳細に述べられています。ここでは鍼法の補瀉について論じています。


問いて曰く。治法と鍼法とは違うものなのでしょうか。

答えて曰く。治法は総称です、ですから一般に「補瀉」と言っています。鍼法は手段ですから、ただ「鍼に補瀉がある」という言葉を用いています。






然なり。補瀉の法では、呼吸出内の鍼が必至であるとは限りません。


鍼法において、呼吸を候うことを主とする方法は、気の標に基づいています。これは諸家が重んじている所のものです。この《難経》では、ただ栄衛の気を得る〔訳注:営衛の状態を詳細に観察して、その気の状態を変化させる〕ことを主としています、これは気の本に基づいています。その標を取ろうとするよりも、その本を取るべきであるということは当然のことです。ここにはまた、腎間の原気を尊ぶという意識もあります。






鍼をすることを知るものは、その左を信じます。鍼をすることを知らないものは、その右を信じます。いざ刺そうとする時には、先ず左手で鍼を刺そうとする場所の栄兪の所を圧按し、さらに弾いてこれを努して、爪してこれを下します、その気の来る状態は動脈のような状態です。


「信」とは専任する〔訳注:主として任せる〕ということです。鍼の上手な人は、左手に専任して気を致し〔訳注:招き寄せ〕ます。鍼の下手な人は、右手に専任して鍼に執し〔訳注:拘わり〕ます。鍼の上手な人は、鍼を持つということを主とせず、気を致すことを主とします。鍼は器であり、形があり陰とします、ですから右手の陰に任せます。気は機であり、形がなく陽とします、ですから左手の陽に任せます。鍼は外にある物で陽分にあります、気は内に動ずるもので陰分にあります。このことは陰陽がお互いにお互いを蔵するという意味があります。先ず左手で圧按するのは、気を致らしめて〔訳注:招き寄せて〕栄衛に到達させようとすることです。「弾」とは指で努発する〔訳注:弾く〕ことです、これによって浅く衛気を動かします。「爪する」とは爪を下して按ずるということです、これによって深く栄気を動かします。このように指で弾じ爪で刺す〔訳注:すなわち弾爪する〕ことによって栄衛の血気は沸騰して脉動をうつような状態になります、これが手下に気を得るということです。また、十二経に皆な動脉があるということは、天生のもの〔訳注:天によって先天的に与えられているもの〕です。弾爪することによって動脉を致す〔訳注:招き寄せる〕ということは人為によるものです。これもまた、造化の功を奪うこと〔訳注:自然の状態で作られているものを、人為によって変化させること〕によって行なうことができることなのです。伝〔訳注:史記:扁鵲倉公列伝〕に、〔訳注:兪という黄帝の時の名医が穴の様子を見て治療する姿を語られており、〕皮を割き、肌を解き〔訳注:肉を切開し〕、荒れた部分を揲し〔訳注:取り〕、幕に爪し〔訳注:肓膜を洗い〕、腸胃を湔浣(せんかん)〔訳注:すすいで洗い〕、五臓を漱滌した〔訳注:すすいで洗った〕とあるものもまた、鍼を巧みに精妙に施すことによって極められた状態を表わしているのですから、不思議がることはありません。わたしは以前に、拳家者流の人〔訳注:拳法家〕に会ったことがあり、腕をねじられることに耐えるという術を伝えてもらいました。そこで力の強い者に試しにわたしの腕をねじってもらいましたが、ねじることはできませんでした。生来の虚弱体質のわたしでさえこのようなことができるのは、ただ教えられた術がなせるものです。人は不思議に思いますが、これはなんのことはありません、ただ掌中の虚実の理を知っただけのことなのです。《易》に、道を彰かにすることによって徳行を神にする〔訳注:真理を獲得することによって、自身の行為を神秘的なほど精妙なものに変化させる〕、とありますが、これはこのようなことを言っているものです。






鍼を順にして刺し、気を得てから推してこれを内れる、これを補と言います。動じてこれを伸ばす、これを瀉と言います。


「順」とは順直ということです。鍼を直角にして下します。今までの難に言われていた、鍼を臥せる刺法ではありません。「気を得る」というのは鍼下の気を得るということです。原気が固密な時は、鍼を喫(の)みこみますので鍼下に力を感じます。魚が釣針を銜(ふく)むような感じです、これを気を得るとします。気を得てから鍼を裏に推し納(い)れると、気が充実し、補となります。気を得てから鍼を動かして気を表に伸ばし出すと、気が減り、瀉となります。


問いて曰く。今の鍼家に、ただ爪鍼だけを用いる者があるのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。《難経》には導引按蹻の法については触れていませんが、圧按はこの導引按蹻の範疇に入ります。この「圧」とは気血を圧動するという意味です。《内経》に、中央は土地が平で湿であり、その病には痿厥〔訳注:四肢が弛緩して無力となり厥冷する病〕寒熱が多く、その治法は導引按蹻がよろしい、とあります。この記載から考えると、導引按蹻は中州における陰陽が雑和しているものに対する治法になります。ですから鍼家によっては、虚弱の人や婦人や小児や疲れきって困窮している人に出会った時、鍼を用いずにただ爪刺するだけで治療する者がいるのです。しかしこれは導引按蹻の微なるものであり、移精変気〔訳注:患者の精神状態を変化させることによって治療効果をあげようとする方法〕の小術と同じもので、このような小術では何もなし得ません。ただ姑息に対症療法をしているにすぎないのです。






気を得ることができなければ男は外を女は内をともにします。これでも気を得ることができなければ、これを十死不治と言います。


鍼下に気を得ることができないということは、原気が衰敗したために鍼を喫みこむことができないという、泥土を刺しているような状態のものです。気を得ることができない時はさらに探索し、男子の場合は手の下の外気を候い、女子の場合は鍼の下の内気を候います。それでも気を得ることができない場合は死候とします。また、男子は寅に生じて左に位し、陽とし外を主るとしますので、その気は常に出て表に旺します、これが左手で撮按して得ることができる気を探るゆえんです。女子は申に生じて右に位し、陰とし内を主るとしますので、その気は常に入り裏に旺します、これが右手の鍼下に得ることができる気を求めるゆえんです。


問いて曰く。手下の気と鍼下の気とは別のものなのでしょうか。

答えて曰く。浮沈内外の別がありますけれども、本来は栄衛の一気です。ですから手下に気を得ることができなければ、また鍼下にも気を得難いものです。さらに考えてみると、《難経》には、脉が平であるのに死ぬものは生気が独り内に絶したもの、であるとあり、また、上部に脉があり、下部に脉がないものは死にます、とありますが、これは、内と下とを主としているということを表わしている言葉です。ですから鍼下の気を本とします、これは川の流れの常に存在しているようなものだからです。そして手下の気を標とします、これは潦水が驟(にわか)〔訳注:急に:速く〕至るようなものだからです。これはまた、先天の気と後天の気のようなものでもあります。


問いて曰く。この難の圧按と、七十一難に言う所の摂按とは別のものなのでしょうか。

答えて曰く。摂按と圧按とは同じ意味ですけれども、七十一難で述べられているものはただ衛気を散ずるだけです。この難で述べられているものは、栄衛を動かして気を致す〔訳注:招き寄せる〕ものです。ですから得られる効果は全く異なっています。また、指先で気を散じたり、鍼を用いることによって気を集めるという妙術もあります。これもまた掌中の造化であると言うことができるでしょう。



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