難経原文 三



十九難に曰く。経に、脉に逆順があり、男女には恒のものがありまた反するものがあるとありますが、これはどのような意味なのでしょうか。

然なり。男子は寅に生まれます、寅は木であり、陽です。女子は申に生まれます、申は金であり、陰です。ですから男の脉は関上にあり、女の脉は関下にあります。このために男子の尺脉は恒に弱く、女子の尺脉は恒に盛です。これが男女の脉の常となります。

反するものは男であるのに女の脉を得、女であるのに男の脉を得ます。

そのような脉状の者が病となるとどのようになるのでしょうか。

然なり。男が女の脉を得るものを不足とし、病が内にあるとします。左にこのような脉状を得るときは病が左にあり、右にこのような脉状を得るときは病が右にあります。脉の搏つ側にしたがって判断します。女が男の脉を得るものを太過とし、四肢に病があるとします。左にこのような脉状を得るときは病が左にあり、右にこのような脉状を得るときは病が右にあります。脉の搏つ側にしたがって判断するとはこのことを言います。





二十難に曰く。経に、脉には伏匿があるとありますが、どの臓に伏匿して、伏匿と言うのでしょうか。

然なり。陰陽相互に乗じ、相互に伏することを言います。脉が陰の部位にありながら反って陽脉が現われるものは、陽が陰に乗じたものと判断します。その脉状がときに沈濇で短を示していたとしても、それは陽中の伏陰とします。脉が陽の部位にありながら反って陰脉が現われるものは、陰が陽に乗じたものと判断します。その脉状がときに浮滑で長を示していたとしても、それは陰中の伏陽とします。

重陽のものは狂となり、重陰のものは癲となり、脱陽のものは鬼を見、脱陰のものは盲目となります。





二十一難に曰く。経に、人の形が病んでいて脉が病んでいない場合は生きると言い、脉が病んでいて形が病んでいない場合は死ぬと言うとありますが、これはどういう意味なのでしょうか。

然なり。人の形が病んでいて脉が病んでいない場合と言っても、実は病んでいないのではありません。呼吸数が脉数に対応していないということを言っているのです。これが大法です。





二十二難に曰く。経に、脉には是動病と所生病とがあると述べられています。一脉が変化して二種類の病を表わすのはどうしてなのでしょうか。

然なり。経に、是動は気であり、所生病は血であるとあります。

邪が気にあれば気が是動病を呈し、邪が血にあれば血が所生病を呈します。

気はこれを呴することを主り、血はこれを濡らすことを主ります。

気が留滞して循らないものは、気が先に病んだものと考えます。血が壅滞して濡らさないものは、血が後に病んだものと考えます。

ですから是動病が先に起こり、所生病が後に起こることになります。





二十三難に曰く。手足の三陰三陽の経脉の度数〔訳注:定まった長さ〕を明確に示すことができるのでしょうかできないのでしょうか。

然なり。手の三陽の脉は手から頭に至り、その長さは五尺、五六を合わせて三丈になります。手の三陰の脉は手から胸中に至り、その長さは三尺五寸、三六で一丈八尺、五六で三尺、合わせて二丈一尺になります。足の三陽の脉は足から頭に至り、その長さは八尺、六八で四丈八尺になります。足の三陰の脉は足から胸に至り、その長さは六尺五寸、六六で三丈六尺、五六で三尺、合わせて三丈九尺になります。人の両足の蹻脉は足から目に至り、その長さは七尺五寸、二七で一丈四尺、二五で一尺、合わせて一丈五尺になります。督脉・任脉はその各々の長さは四尺五寸、二四で八尺、二五で一尺、合わせて九尺になります。ですから脉の長さは一十六丈二尺になるわけです。

これがいわゆる十二経脉の長短の数です。

経脉十二、絡脉十五、これらはどこから始まり、どこで窮まるのでしょうか。

然なり。経脉は血気を循らし、陰陽を通じさせて、身体を栄養するものです。

その始めは、中焦から手の太陰・陽明に注ぎ、手の陽明から足の陽明・太陰に注ぎ、足の太陰から手の少陰・太陽に注ぎ、手の太陽から足の太陽・少陰に注ぎ、足の少陰から手の心主・少陽に注ぎ、手の少陽から足の少陰・厥陰に注ぎ、厥陰からまた手の太陰に還って注ぎます。

別絡十五も全てその原に因り、環に端がないように転転と互いに潅漑しあい、寸口・人迎に朝して百病に対処し死生を決しています。

経に、明らかに終始を知れば、陰陽が定まるとあるのは、どういう意味なのでしょうか。

然なり。終始は脉の紀です。

寸口・人迎に、陰陽の気が朝使を通じて環の端がないような状態のものを始と言います。終とは三陰三陽の脉が絶することで、絶するときは死にます。死ぬにもそれぞれの形がありますので終と言います。





二十四難に曰く。手足の三陰三陽の気がすでに絶している場合、何をその徴候とするのでしょうか。またその吉凶を知ることができるのでしょうか、できないのでしょうか。

然なり。足の少陰の気が絶すると骨が枯れます。少陰は冬の脉であり、伏行して骨髄を温めます。骨髄が温かくなければ肉が骨に着かなくなります。骨と肉とが互いに親しまなくなると、肉が濡となり却ります。肉が濡となって却るため歯は長くなって枯れ、髪が潤沢ではなくなります。潤沢でなくなっているものは骨が先に死んでしまったものです。戌の日に篤くなり、巳の日に死にます。

足の太陰の気が絶すると脉がその口唇に栄えなくなります。口唇は肌肉の本です。脉が栄えなくなると肌肉も滑沢ではなくなります。肌肉が滑沢ではなくなると肉が満ちるようになります。肉が満ちるようになると唇が反ります。唇が反っているときは、肉が先に死んでいます。甲の日に篤くなり、乙の日に死にます。

足の厥陰の気が絶するときは、筋が縮まり卵と舌とに引いて巻きます。厥陰は肝の脉です。肝は筋の合であり、筋は陰器に集まって舌本を絡いますので、脉が栄えなくなると筋が縮急するようになります。筋が縮急すると、卵と舌とに引きますので、舌が巻き卵が縮みます。これは筋が先に死んだ状態です。庚の日に篤くなり、辛の日に死にます。

手の太陰の気が絶すると皮毛が焦げます。太陰は肺です。気を行らし皮毛を温めるものです。気が栄えなくなると皮毛が焦げます。皮毛が焦げると津液が去ります。津液が去ると皮節が傷れます。皮節が傷れると皮が枯れ毛が折れることになります。毛が折れる状態になったものは、毛が先に死んでいます。丙の日に篤くなり、丁の日に死にます。

手の少陰の気が絶するときは、脉が通じなくなります。脉が通じなくなると血が流れなくなります。血が流れなくなると色沢がなくなります。そのため、顔色が黧みを帯びたように黒くなります。このような状態の人は、血が先に死んでいます。壬の日に篤くなり、癸の日に死にます。

三陰の気がともに絶するものは、目眩から転じて目暝するようになります。目暝するということは、志を失うということであると考えます。志を失うということは、志が先に死んだ状態です。志が死んだときには目暝します。

六陽の気がともに絶する場合は、陰と陽とが互いに離れます。陰と陽とが互いに離れると、腠理が漏れて絶汗が出ます、その汗は貫珠のような大きさで転々と出て流れません、気が先に死んでいる状態です。旦に占すると夕には死に、夕に占すると旦には死にます。





二十五難に曰く。十二経があって、五臓六腑は十一しかありません。残る一経はどのような経なのでしょうか。

然なり。この一経は、手の少陰と心主との別脉です。

心主と三焦とは表裏をなし、ともに名前はありますが形はありません。

ですから経脉には十二あると言います。





二十六難に曰く。経脉には十二経があり、絡脉には十五絡脉があります。余っている三つの絡脉は、どのような絡脉なのでしょうか。

然なり。陽絡と、陰絡と、脾の大絡とがあります。

陽絡は陽蹻の絡です。陰絡は陰蹻の絡です。

ですから絡脉には十五絡脉があるのです。







二十七難に曰く。脉には、奇経八脉というものがあり、十二経脉に拘わらないというのは何なのでしょうか。

然なり。陽維・陰維・陽蹻・陰蹻・衝・督・任・帯の脉があります。

この八脉は皆な経脉に拘わりません。ですから奇経八脉と言います。

経脉に十二種類あり、絡に十五種類あり、この二十七種類の気が、互いに従いあって上下しています。奇経だけがどうして正経に拘わらないのでしょうか。

然なり。聖人は溝渠を図り設けて、水道を利し、不然の時に備えました。天から雨が降下して、溝渠が溢れ満ち、この時に当って霶霈は妄りに作ります。こうなると聖人といえども復び図ることはできなくなります。

このようにして絡脉が満ち溢れます。諸経がこれに拘わることはできません。



一元流
難経研究室 前ページ 次ページ 文字鏡のお部屋へ