下焦精蔵 第二十六節 男女受胎




男女の胎を生じることについては古くからさまざまな議論があって、統一された結論は出ていません。

北斉の橙橙の遺書に、父の精 母の血の前後によって男女の胎を論じていますけれども、この説は間違っています。父の一滴の精液が子宮に凝った後は、母の陰血によってその胎を養います。けれども、泄精して子宮に入る交会の始めには、母の血が交わることは決してないからです。

また東垣は、経水が絶えて後四五日の間、子宮の陰血が旺するか旺しないかということで男女の胎を分けて論じています。丹渓は、子宮に両岐あり、左の子宮に受けるときは男胎、右の子宮に受けるときは女胎としています。けれどもこの二説もともに誤りです。男女の胎を生じるものは、天地陰陽の妙道によるものであり、人智の及ぶところではありません。







ある人は、陰が勝つものは女胎、陽が勝つものは男胎と述べていますけれどもこれもまた間違いです。陰陽平にして〔訳注:陰陽のバランスがとれることによって〕物というものは生じます。陰陽の偏勝がありながら胎息〔訳注:胎児の呼吸。ここから敷衍されて、呼吸する胎児を表現したものか〕を生じることはありえません。ただ父母の交会の間、陰陽感動の気にしたがってそうなるのです。あらかじめその理を測り知ることはできません。たとえば草木は五葉に生じあるいは三葉に生じあるいは赤い花白い花の異類を生じますが、どうしてかはわからないということと同じことです。ともに生物の自然ということになります。

男女交会の時に、父の一滴の真精が妙凝して胎を受ける際、自然に天地陰陽の賦するところがあって男女の胎を始めて分けます。男女の胎を生じるのは天地自然の妙道にあり、人がなすところではないわけですから、その理もまた人のよく測り知ることのできないところのものです。胎がそのように生じる理由を測り知ることができるなれば、人々が思い通りに子を生じることもできるはずです。

男女の受胎は自然に起こることであって、人智の及ぶところではないというのはすなわち、反ってその理を深く理解しているものです。男女の胎を生ずるのは、父母から直接生じていると思ってはいけません。天地陰陽の気を父母に借りて〔訳注:原文のママ:胎児が、天地陰陽の気を父母を通して借りて自らを生じさせるという意味か〕これを生じるのです。その天地陰陽の中において、陰を主として受けるものは女胎となり、陽を主として受けるものは男胎となるわけです。



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