第十二章 香薷散の論




「薷」の音は柔【原注:じゅう】です。世の人は誤って需【原注:じゅ】という音で長い間 読んできました。枳殻【原注:きかく】を枳殻【原注:きこく】と読む風俗は今更改めにくいでしょう。

香薷は気味は辛温で発表散邪の品です。夏季の炎暑を避けようとして納涼し、外は風冷に感じ内は冷飲食をして、淫邪が内外に収滞して陽気が発達する〔訳注:内から発し四肢末端に到達する〕ことができなくなると、発熱悪寒し頭痛し吐瀉し霍乱するといった症状となります。このようなものに香薷飲を製して夏季にこれを用いると、香薷の辛温でその収滞する陰邪を発散させることができます。暑を解する薬剤ではありません。このことを愚医は誤って解暑と考え、四味の香薷飲を散薬にして、長夏の前日に家々に贈って「夏季にこれをあらかじめ服用すると、暑病を避けることができます」と呼ばわるわけです。世人もまたこの風俗に伝染して、無病の者も病者も老幼の区別なく、夏季には必ずお茶の代わり湯の代わりにこれを服しています。

けれども夏季には炎暑が外から蒸して、人の表は疎【原注:まばら】となり汗が泄れ元気が散じ脱しやすくなります。金水がまさに乾きそうな時期です。ですから古人は生脉散で元気を補い、金水を滋す薬剤を製して夏季の茶や水に代えてこれを服用させました。

今どうして、陰邪収滞の有無を弁ずることもなしに香薷という辛温散発の剤を用いて、夏季に通用する薬としているのでしょうか。もし涼寒の陰邪がない者が妄りにこれを服用すると、おそらくその辛温がふたたび表を開いて、さらに汗が泄れ元気が散奪されて、金水がますます煩燥の病を受けることとなるでしょう。

このようなものが風俗となり、変えにくくなっているものが、少なくないのです。







また世に万病円また気付けと称するものがあり、一方一品で諸病すべてを治すと述べています。もし一方一薬ですべての病を治すことができるのであれば、神農の三百六十五種、李時珍の一千七百有余種、その外、古今の汗牛充棟の方剤を、どうすればいいのでしょうか。これらはすべて考えがないこと甚だしいものです。

また世に気付けと称する丹薬はすべて辛温発散の剤で、一応は気痰による閉塞を開き発することができるものです。これは急な時に標を治する法に属します。補益の剤ではまったくありません。愚医は気付けという俗語を取って、これを元気を補い〔訳注:元気を〕付ける薬と思っています。世の中の気付け薬は、気痰による閉塞という急症に用いるとこれを開き発することが少しできるだけです。これを強いて長期間用いると、元気を反って散じさせ虚せしめてしまいます。







そもそも薬というものはすべて、毒があるからこそ病を治すことができるのです。無病の者が長期間服用したり常時服用したりしてはいけません。《五常政大論》に『大毒で病を治すと、十に六を去ることができいます。常毒で病を治すと、十に七を去ることができます。小毒で病を治すと、十に八を去ることができます。無毒で病を治すと、十に九を去ることができます。』と述べられています。ですから病が去ったならば服薬をすぐに止めなければなりません。

今の庸医はその報礼【原注:やくだい】が欲しいため、病が去っても服薬を強いて進めたり、己の医術の及ばない病であっても、富貴の家であれば敢えて他に譲らず強いて日数を経、とうとう起てなくなってから他に譲り退く者がたくさんいます。このような者は不仁をなす者と言う他なく、医ではありません。医として、ただ利得を捨て、仁義をもって情の主とするならば、自然に天神がこれに応じて護りを加えますから、神妙な〔訳注:素晴らしい〕治療をすることができるようになるものです。



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