病家両要説




患者にとってもっともっとも大切な二つの事柄。




一、浮言を忌む



医者は治療し易い病人を貴ぶのではなく、治療し難い病人を貴ぶ。

病人は有名な医者を貴ぶのではなく、有名な真の医者を貴ぶ。

天下におけることで、自分にでき人にもできることは、難しいことではない。

天下の病人で、私に治療でき人にも治療できることは、難しい病人ではない。

難しいことは、一般の人間が理解することができないことであり、

難しい病人は、一般の医者が治療することができないものである。

このため、特殊な人が現われて、後に特殊なことがなされるようになり、

特殊な医者が現われて、後に特殊な病人を治療できるようになるのである。

医者における高下には、非常に大きな差がある。

これは丁度、高い所に升れば升るほど見える範囲が異なり、それより下にあるものを特別な苦労なしに見ることができるようなもので、

遠い場所に歩を進めれば進めるほどそれなりの見聞が広がり、すでに経験していることは特別な苦労なしに理解することができるのである。










節が曲りくねり根を堅く張った大木を細工するには、鋭利な道具が必要である。

陽春と白雪とを調和させるものは、誰だろうか。

医者であっても医道を真に理解することは難しいのに、医者でもない者がこれを理解することができるだろうか。

真理と真理に近いものとの間に仮のものがあり、真理を掴んでいるようであっても実は誤っていることが多いものである。

またもし真理と外れたことを語るのであれば言葉として出すことは簡単であるが、非常に危険な状態の患者に対してはしりごみして混乱してしまうものである。

もし正しいことを語っていれば、智者と大体同じようなところを見、精切であろうとする者はあらゆることを考え尽して余すところがないので、ことさら患者と話す必要がなくなる。

もし誤ったことを語っていれば、任せようとする思いがなくなるので、少しものの判った者は、黙って袖に手を入れ自分自身を重んじようとする。

誤ちを語ることによって害をおよぼすことがいかに多いことか。










このようなときに主とすべきなのは、自分に定見があるかどうかということではなく、迷いを打破して誤ちを行なわないようにできるかどうかということである。

軽々しい言葉は最も避けなければならないのである。










二、真医を知る



病人にとって最も重要なことは医者を選ぶことであるけれども、実は医者を選ぶということはそれほど難しいことではない、医者に任せるということが難しいのである。

いや、医者に任せるということはそれほど難しいことではない、いざとなったときに迷わないことが難しいのである。

また、しっかりした考え方をもって、是非を混同しないようにすることは、さらに難しいことである。

これを理解できずに、噂話しを聞いてたくさんの医者を集めてみても、よい医者には巡り合えず、下手な医者としか出会えないものである。

ただ神の議によってのみ、意外な場所で名医と巡り合うことができるものなのである。










危急の時に、下手な医者によて薬を投与されることに耐えられるだろうか。

似て非なるものの中にあって、ただただ混乱し誤ちを行なえば、どうして生命を保つことができるだろうか。

議論が多い者は成し遂げることができず、かかりつけの医者が多い者は必ず失敗する。

かかりつけの医者が多いのにどうして失敗するのだろうか。

それは、議論を好む者が多くて君子が少ないからである。

難しいものである。

しかし最も難しいのは、医学のごく一部のみを知っているものである。

治療を任せるということは兵を任せるようなものである。

ともに存亡に関わることなのであるから。










よい医者を探す方法がどこかにないものだろうか。

慎重さの有無によってその仁を観ようとすると、臆病な者との区別がつかない。

穎悟の有無によってその智を観ようとすると、狡詐な者との区別がつかない。

果敢さの有無によってその勇を観ようとすると、猛浪な者との区別がつかない。

浅深の有無によってその博を観ようとすると、強弁する者との区別がつかない。

執拗な者は定見があるように見え、誇大な者は奇謀があるように見える。

経典の幾篇かを熟読しただけで、滔々として尽きることがないかのように見えたり、道の数語を聞いただけで空論で取るところがないと語る。

反省しない者は臨終の床にあって手遅れとなり、自説に固執する者はいくら齢を重ねてもその能力は伸びない。

両端に固執する者は自然の天功を求めるだけであり、四診を廃する者は眼を閉じて歩く駄馬のように危うい。

穏当の評判がある者は女性で失敗し、経権をよく知らない者は、格致の明敏さがない。

専門を語る者もあるが、決してその全てを理解しているわけではない。

理と性に明らかではない者に、聖神となる者はない。

自分の心で人の心を推し量ることは、ものに接する場合の重要な方法であり、医者と言ってよい。

しかし、自分と人の気血とが、符合し難いことに拘ってはいけない。

三人ともに意見が違っていても、そのうちの二人の間で意見があったとき、それに従うということは、物事を決断する際の重要な方法であり、医者と言ってよい。

しかし、愚者と智者の違いや、多少の違いを語ってはいけない。

これらの方法は、医道の徴としてあるものであり、医道の難しさを語るものではまだない。










これらのことをよく見ておいていただきたい。

このようなことを行なうことによって、その小・大・方・円に従ってその才を充分に発揮するならば、仁者や聖人が創造された工巧も充分に使いきられることになるであろう。

その精神を人々の中に置き、燭幽を玄冥の間に隠すことができれば、これを真医と言ってもよいであろう。

この状態で治療にあたっていくのである。

しかし人体の状態は体表からは窺い知り難く、その心は語り難いものである。

中庸を守る者は語らず、非常に貴重な真理に気づいている者はそれをひけらかすことはない。

このような人間を相手にし、それを理解していこうとすることの中に、医道の難しさがあるのである。










ゆえに何事もないときに深く勉強しておかなければ、医道がいかなるものかを実践していくことは困難である。

いざとなったときにこの医道を信じられなければ、その長所を発揮することができないのである。

もし、喉が渇いてから井戸を掘り始めたり、戦争が始まってから武器の鋳造を始めたりすれば、人々はどうやってその人に対して信を置くことができるだろうか。

危急の病のときにやむをえず下手な医者の手にかかることは最もあってはならないことである。

君子が斎戒と戦争と病とに対して慎重に対処するのは、私が生命に対して配慮を怠らないことと同じことである。










生命を軽んじないようにしていただきたい。

ああ、伯牙は常にいたけれども鍾期は常には存在しなかった。

夷吾は常にいたけれども、鮑叔は常には存在しなかった。

そのために真実を知ることが困難となり、古より多くの人々が苦しんできたのである。

現在の状態だけが異常なわけではないのだ。

読者は私の言葉を重んじてよく事前に心を配り、

すでに病むものをを治療するのではなく未だ病んでいない状態のものを治療し、

すでに乱れているものを治めるのではなく未だ乱れていない状態のものを治めるような、

明哲になっていただきたい。

生命を愛するものであれば、このことはおおまかにでも理解することができるであろう。









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