三焦形質論の形成



■《黄帝内経》において論じられている三焦は主として、陽気を散布し水液を通調するという生理的機能と、人体における上中下の三部位に対応しているということが述べられているだけで、三焦に形体があるかどうかということに関しては明確にされていません。


■《難経》においては、《黄帝内経》で論じられている三焦の機能と部位を基礎としながらさらに明確に一歩をすすめ、三焦は名前はあるが形はないといういわゆる、『三焦には形がない』という説が提唱されています。
《難経》三一難には、

『三焦はどこから稟け、どこに生じ、どこに始まり、どこに終るのでしょうか。またその治療は、いつもどの場所にあるのでしょうか。このことは明確にすることができるでしょうか、できないでしょうか。

然なり。三焦は水穀の道路であり、気の終始する所です。

上焦は心下の下膈にあり、胃の上口にあります。内れて出さないことを主ります。上焦を治療する位置は中にあります。玉堂の下一寸六分で、両乳の正中で陥なる場所がそれです。

中焦は胃の中脘にあり、上でも下でもなく、水穀を腐熟することを主ります。中焦を治療する場所は臍の傍らにあります。

下焦は膀胱の上口にあたり、清濁を分別することを主ります。出して内れず伝導することを主ります。下焦を治療する場所は臍下一寸にあります。

ですから三焦と名づけます。その府は気街にあります。 』

とあり、また三八難には、

『腑に六種類あるというのは、三焦のことを言っています。原気の別であり、諸気を主持し、名前はありますが形はありません。』

とあります。



■その後、華佗〔注:後漢の人:紀元208年に死去〕の《中蔵経》〔注:華佗の名を托された偽書〕には、人体の三元の気という観点から、『三焦は人の三元の気であり、中清の府と言われています。五臓六腑・営衛経絡・内外左右上下の気を総領しています。』として、三焦には形がないという認識が提供されています。

■唐代の孫思邈の《千金要方》の中では、三焦の形質について統一されないままに記載されています。《千金要方・三焦脉論第四》では、三焦は一名三関といい、上焦中焦下焦が『合して一つとなっており、名前はありますけれども形はありません。五臓六腑を主り、神道〔伴注:穴名の意味ではないでしょう〕を往来し、全身を巡り貫き、聞くことはできますが見ることはできません。精気を和利し、水道を決通し、腸胃の間に息気している〔伴注:気を休めている:棲息している:孫思邈が語ると、亀の長息を思い起こさせますね。彼は仙人ですからねぇ〕

ということは、知っておかなければならないことです。』とあります。しかし同時に、《黄帝内経》の説を根拠として、『三焦の形相の厚薄大小は、膀胱の形と同じである』《千金要方・三焦脉論第四》ともまた述べています。つまり、三焦の機能についてはおおむね統一された認識があるが、三焦の形質についてはもっと検討が必要だということです。これ以降、後世の医家によってさまざまな論争が沸き起こることとなります。





■宋代の陳言はその《三因方》の中で、《龍川志》に掲載されている挙子〔伴注:科挙に合格した優秀な人材〕である徐遁の考えとして、始めて三焦有形説を明確にしています。それによると、三焦の形は『手の平の大きさほどの脂膜である、まさに膀胱と対称的なものであり、二本の白い脈が中から出ており、その一つは脊を挟んで上り、脳を貫いている』と、三焦とは腎の下方にある脂膜であるとしています。

■元代の王好古(おうこうこ)李東垣(りとうえん)の三焦論を取り上げ、『三焦には二種類あり』その一つは『名ありて形はなく』もう一つは、『形状を有している』としています。彼は、『三焦は名ありて形がない。諸気を主持し、三才の用〔伴注:機能〕を象ります。ゆえに呼吸の升降・水穀の往来などはすべてこれによって通達されています。』と説明しまた、『上中下の三焦は通じて一つの気となり、全身を保護し、外邪から身を護ります。すなわち頭から心に至り、心から臍に至り、臍から足に至るまで〔伴注:三焦であるわけ〕です。しかしこれに形状があるとどうしていえるでしょうか?上焦は内れることを主り出しません、中焦は水穀を腐熟することを主り、下焦は出すことを主り納めません。そのため経に、『上焦は霧のようであり、中焦は漚〔伴注:泡〕のようであり、下焦は瀆〔伴注:下水〕のようである』と書かれているのです。』《此事難知》〈問三焦有几〉

■元代の袁坤厚(えんこんこう)にも三焦についての研究があります。その《難経本旨》には、『いわゆる三焦とは、隔膜の脂膏の内側、五臓六腑の間隙にあり、水穀が流れ化する関鍵となっており、その気はその間に融合しており、隔膜を薫蒸して、発して皮膚分肉の間に達し、四傍を運行しています。上中下と言われているのは、そのそれぞれが存在している位置によって呼ばれたものです。まことに原気の別使そのもののありようです。ですからそこに形がないといっても、内外の形によって形づけられ、その実体はないといっても、内外の実体に沿うことによって形づけられているのです。』として、三焦には形はないといっても、隔膜の内側の臓腑の間の空腔の部位がこれにあたると指摘しています。





■明代の医家による三焦の研究についての重点はやはりまだ、三焦の形という問題にありました。三焦には形がないという意見の代表的な人物は孫一奎で、三焦には形があるという意見の代表的な人物は虞摶(ぐたん)と張景岳に代表されます。三焦には形があるという説は徐々に形成されていき、清代の医家に非常に大きな影響を与えました。

孫一奎(そんいっけい)より以前、明代の医家であった馬蒔(ばじ)はその《難経正義》において、三焦には二種類あり、そのひとつは上中下の三焦であり、もうひとつは手の少陽三焦経であると説いています。『手の少陽三焦の焦は膲〔伴注:殻に充満していない肉質〕のことであり、これは有形のものを表現しています。上中下の三焦における焦という文字は、火からおこっているものであり、水穀を腐熟させ変化させるということからきています』《医旨緒余・難経正義三焦評》そして彼は、《三因方》において説かれている右腎の下の脂膜とは、有形の手の少陽三焦のことであるとしています。これは、上中下の三焦は無形であり、手の少陽三焦は有形であるという、二種類の説を彼が主張しているということを意味しています。

■孫一奎は袁坤厚の論を賞賛した上で、三焦が隔膜の中、臓腑の間にある形のない外腑であるという説に賛同しています。彼は、この説に基づいて、まず腎下の脂膜が三焦の体であるという説を批判します。すなわち、人の臓腑には厚薄があり、両腎の脂膜には扁平で長いものや下に垂れ下がっているものがあるけれども、これらは正常な状態なので、これを三焦の体であると信じることはできません。また《内経》には少陽の絡・三焦・少陽の脉の説があり、三焦に形があると言っているようにみえるけれども、これはその経脉を指して言っているのであって、三焦という臓について語っているのではないとしています。彼は、《医旨緒余・難経正義三焦評》の中で、《内経》に『腎は三焦膀胱と合し、三焦膀胱は腠理毫毛をその応とする』と述べられていることに対して、『三焦というものは膀胱の用〔伴注:機能〕であり、原気の使いですから、膀胱に合してこれに応ずるとしているわけです。・・・(中略)・・・三焦は腎と膀胱に属するため、膀胱に付属させて述べているのあり、三焦に実態としての物があるがゆえにこのように語っているというわけではありません。』と解釈しています。そしてさらに三焦は、『その形がないために外腑と呼ばれています・・・(中略)・・・。もしその経脉の起止や兪穴の主病があるということだけによって三焦が有形の腑であると言うのであれば、奇経の中の衝脉や任脉や督脉などにも起止があり主病があるということに思い至らなければなりません。衝脉を血海とし任脉は子宮を主るということからもまた、任脉には有形の腑があると見なさなければならなくなるのではないでしょうか?こういった三焦有形の説は、それが誤りであることをはっきりさせておかなければなりません。』と述べています。

■つまり、孫一奎は、三焦というのは上中下の三部位をまとめて名づけられたものであり、『外には経脉があり、内には無形である』《赤水玄珠・難経正義三焦弁》という観点を提供しているわけです。三焦の機能に関して孫氏は、『三焦・心包絡は相火である』《医旨緒余・丹渓相火議》『営衛は三焦から生じ、中を(やしな)い外を(まも)ります。大気は胸中に集まり、呼吸をめぐらし臓腑にその機能をまっとうさせ、四肢百骸を安定させます。これらのことがまさに相火によってなされることです。』《医旨緒余・問十二支土多、十二支火多議》として、三焦が相火であり、これこそが原気の別使であり生生してやすむことのない生命を助けているものであるとしています。

■これに対して医家である虞摶(ぐたん)は、三焦が有形であると主張しその状態は、臓腑の外側、肓膜の内側にある体腔のことであるとしています。《医学正伝・医学或問》で彼は、『三焦は腔子を指している言葉で、胃腸がつかさどる場所すべてを包括しています。胸中の肓膜の上を上焦、肓膜の下から臍までを中焦、臍下を下焦とし、総じて三焦と名づけています。その体は、腔子の中の脂膜にあたり、五臓六腑の外側をすべて網羅しています。』と明確に述べています。

■虞摶によおって提唱されたこの脂膜腔子説以後、張景岳もまた三焦は『臓腑の外、身体の中にあって、諸臓を網羅する一腔の大府』《類経》であると述べています。彼はその《類経附翼・三焦包絡命門弁》の中でその説をさらにすすめ、『三焦は五臓六腑の総司、包絡は少陰君主の護衛です。ために《難経二五難》に、『心主と三焦とは表裏をなし、ともに名前はありますが形はありません。 』と述べられているのです。しかし、この《難経》における表裏という言葉は正しいと思いますが、無形という言葉は誤りでしょう。名前というものは形に基づいて成り立っているものだからです。もし、名前があるけれども形はないということであれば、そもそも《内経》の言葉が過ちであったということになってしまいます。・・・(中略)・・・形がないというのであれば、どこから水道が出るのでしょうか?何によって厚・薄・緩・急・直・結の違いをつけるのでしょうか?どこに縦横の肌理(きめ)があるというのでしょうか?また何を霧のようであり、漚〔伴注:泡〕のようであり、瀆〔伴注:下水〕のようであるとするのでしょうか?気血の区別はどこでつけるのでしょうか?・・・(中略)・・・人の身体というものは、外の皮毛から内の臓腑まで、その大小名目の別をなくするならば、腹腔周囲上下の全体の形は大きな袋のようであるとみなされますけれども、これは一体なんなのでしょうか?その内側の層は色形は真紅であり、その状態は六合〔伴注:東西南北と上下を指し宇宙の意味〕のようです。そしてこれは、諸陽すべてを保護しているものですけれども、これが三焦でなくて一体なんだというのでしょうか?』

■このように虞摶と張景岳の三焦有形説によって、三焦の形状が徐々に明確になっていきました。虞摶は腔子の脂膜を三焦の形であるとしていましたが、景岳は腔腹の周囲と上下の大きな袋が三焦の形であるとしました。このようにして両者は三焦が実質を有する器官であることを明確に示し、三焦が形質を有する腑であると称えたのでした。ここにおいて、三焦についての理論的な研究は一歩進み、三焦の形質学説というべきものが形成されることとなったわけです。





■明代以降、清代に至っても三焦の研究は不断に進められていきました。新説が唱えられることもありましたが、部分的なものであったり強引なこじつけに過ぎないものであったりしたため、その影響は限られた範囲内にとどまりました。十七世紀の羅美は《内経》に述べられている三焦の経気の循行と胃経の循行とが基本的に一致することから、胃部三焦説を唱えました。彼は《内経博議・太衝三焦論》の中で『三焦は特に胃部の上下の腹腔にあり、三焦と呼ばれる場所はすべて陽明胃の場所です。三焦が主る所は陽明が施す所であり、その気が水穀を腐熟する用〔伴注:機能〕があり、胃とともに太陰の前に位置するということは、実に相火が居し浮遊する場所であるということを示しているものです。このために、「焦」とは「物を熟する」という意味であるとされているのです・・・(中略)・・・「三焦」とは、特に陽明胃と相火の機能に基づいて名づけられているに過ぎないのです。』と述べ、三焦に対する認識を明確にしています。しかしこれは、全面的な論理展開であるとすることはできません。

■清代末期の唐宗海(とうそうかい)は、三焦腔子膜説の影響を受け、また当時の西洋医学の知識をそれに結合させて、油脂三焦の説を提唱しました。彼は、三焦は水道を通調させる作用があるということに着目し、《医経精義》の中で次のように説明しています。『焦は古くは膲と書かれ、身体の隔膜を指し、水をめぐらせるものでした・・・(中略)・・・西洋医学でいう所のいわゆる連網は、隔膜および俗に言われている網油そして身体の膜などのすべてです。このうち網油は膀胱に連なり付着しています。水はこれによって網油の中から膀胱へと滲み入ることができるのです。このことがすなわち古書に、三焦は決瀆の官、水道出づ、とされているゆえんです。三焦は腎中に根ざしています。両腎の間には一条の油膜があり、脊骨を貫いていますが、これが命門と名づけられているものであり、ここが焦原〔伴注:三焦の大本の意味か〕となっています。この系統から発生した板油のうち、胸の前の膈に連なり、上って胸中をめぐり、心包絡に入り、肺系に連なり咽を上り、その外に出、手・背・胸前の腠理となるものが、上焦です。板油から鶏冠油に連及して小腸に著き、その外に出て腰腹の腠理となるものが、中焦です。板油から網油に連及して後ろは大腸に連なり前は膀胱に連なり中を胞室とし、その外に出て腎経の少腹の腠理となるものが、下焦です。人が飲んだ水は、三焦から膀胱に下り気持ちよく流れていきます。しかしもし三焦の機能が思わしくなければ、この水道が閉じるため外に腫脹となります』《医経精義・臓腑の官》と。さらに唐宗海は、『腎は水を主りますが、水をめぐらす腑は実は三焦です。三焦は人の膜油であり、腸胃や膀胱に連なります。食物は胃に入ると腸から下り、水分が胃に入ると胃の周囲から細い管で均等に水が吸い出されて、膜隔に散じていきますが、この膜がまさに三焦なのです。水は上焦から肝膈を経て腎経に滲透し、下焦の油膜に入り膀胱に達します。このため三焦は中瀆の腑水道出づ、と言われているのです。膀胱に属するとは、三焦と膀胱とが互いに深い関係を持っているということを言っているものです。』《医経精義・臓腑所合》

■この唐宗海による三焦の形質に関する論は新説ではありますが、三焦の機能が水道に限局されており、また、西洋医学的な解剖学が無理やり使われています。ことに、摂取した水分が裏に入った後、散じて隔膜に走り網に連なり油膜に達し、ふたたび下って膀胱に入るという説などは、三焦の生理的な機能に対する理解が不充分なだけでなく、人体の正常な生理とも符合しないものです。このため陸淵雷は、『言われている言葉を信ずるならば、三焦とは胸膜・肋膜・腹膜のこととなります。しかし思いますに、膜というものは臓腑や骨格に張りついているものであり、そこには水をめぐらせる機能などありませんし、ここは病を発するに過ぎない部位です。またこのことは、古書に言われている三焦の病とも符合しません。ですから、三焦は油網ではないのだと、明確にしておいてください。』《金匱今釈・臓腑経絡先後病脉証篇》と述べています。

■三焦についての理論的な研究のうち、諸気を主持する・人体の気化を総括する・水穀の運行と水道を流通させる機能などについては、明代以前にも医家たちによって深く認識されてきたところですが、形質についての研究は明代以降、深く掘り下げられ、多くの医家によって研究されました。この概念は、中国医学の臓腑理論の内容を発展させ、また臨床実践においても豊かな指針を与えることとなったのです。





以上、三焦は有形か無形かということについての歴代の考察を、《中医学術史》の文章を借りて述べてきました。中国の医学史において結論づけられていることは、三焦は有形であり、その形とは、張景岳のいわゆる、三焦が臓腑を包み全身を網羅する身体そのものであるという説が嚆矢とされているようにみえます。しかしよく考えて見ると、これはまるで宇宙が無であるのかあるいはエーテルで満たされているのかという論争のような空虚感をともなうものであることが理解されるのではないでしょうか。

有形もあまりに巨大でいわゆる六合を包む袋というほどのものであるならば、それは、無形であるといっているのとそれほど異なることはないのではないかということです。それを神用の作用として、生命エネルギーといった霊妙不可知なものの総称であるとした《難経鉄鑑》の意見は、その意味で、《難経》の著者の意図に符合し、また人体の生命そのものを神秘的なものと基本的に把握する上で、重要な観点であろうと思います。

現代中国は、唯物的な指向性が強いので、このような神秘的な概念は排除される傾向にあり、唯物論を高等な概念であると把え、それへ向けて歴史を総括する傾向があるということをも踏まえて、この論文を読んでいく必要があるのではないかと私は考えています。





勉強会で、この三焦形質論の歴史を考えていたら、ある人が、「なんや、ドーナツに穴はあるかないかという話みたいやなぁ、」とのたまわっておりましたが、まことに言い得て妙!!!でありました。








主要参考文献
『中医学術史』
上海中医学出版社刊320P







2000年 12月17日 日曜   BY 六妖會




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