難経鉄鑑 序



天地の仁〔訳注:慈愛〕は、渾然とした状態で人に具わっている。これを顕すことによって聖人や賢人となろうとするものは性〔訳注:天から与えられた人間の本質〕である。天地の気がこの身体に潜伏して神〔訳注:霊妙な働き〕となり遷〔訳注:移り変わる〕となっているものは原〔訳注:本源、ここでは人体を支えている根源〕である。この性が具わっている場所のことを心といい、原の宿っている場所のことを命門という。聖門〔訳注:孔子門下〕には正心の教〔訳注:心を純一にして雑念を起こさないという、聖人になるための教え〕があり、仙家〔訳注:仙道の門下〕には煉丹〔訳注:仙人になるために仙薬を作ったり丹田に気を集める修養法を学ぶこと〕の説がある。このように人間たるもの全てが尭や舜のような聖人となろうとし、また神仙になろうとする理由はもっぱらこのためなのである。




坂陽の蘇仙兄は癸の歳〔訳注:一七一三年〕に雒らく〔訳注:もと洛陽の意味、首都すなわち京を指す〕に遊学し、僕と共に井原先生の講義を聞くためにその家に侍っていた。先生はわれわれに対していつも言われていた、「古くから《素問》《霊枢》が医家の基本的な経典であるとされ、その講習会は欠かされたことがない。しかしそれを学んでいくにも後人の編纂間違い等によって崑岡の玉石・涇渭の混流〔訳注:ともに玉石混淆という意味〕となっており、すべてをそのまま信じることはできない。」と。そこで特に《難経》を用い、道学の語法と照らし合わせながら、熟考に熟考を重ねて学徒を教え導いてくだされた。

この偉大な井原先生が世を去ってすでに三十年たつが、私は寝ても覚めても残念に思っていたことがある。それは、《難経》に対して附されている数々の注釈の不明な部分を明確に説き明かし、上池の淵源〔訳注:《難経》が書かれた当初の思想〕に到達して、八十一難にわたるその問答を一原の浩気〔訳注:ただ一つの中心となる気、「浩気」という言葉には孟子の「浩然の気」を思い起こさせるものがある〕に集約して説き明かした書物が存在しないことであった。




先頃先の蘇仙兄が雪月に乗じて遠い所を尋ねてこられ、旧交を温めることとなった。蘇仙兄は帰る際に、著わされたこの《難経鉄鑑》を私に渡し、「私が帰った後、これを読んでみていただきたい。そしてもし問題がないようであれば、序文を書いていただけるとありがたいのですが。」と言われた。




後日その書を紐解いてみて私は、呉下の阿蒙〔訳注:学識の浅い人物〕も目を拭わないではいられない〔訳注:明確な理解に至らずにはいない〕ような優れた書物であることに非常に驚き、綈袍ていほうの恋恨〔訳注:旧情の温もりを懐かしむ感情〕をありありと思い起こすこととなった。さらに少し読み進むに従って徐々に覚りが生まれ、道に踏み迷って桃源郷に出会い、蔗〔訳注:さとうきび〕を食べて佳境に逢う〔訳注:あまりのおいしさにボーっとする〕ような感興を覚えた。ここに至って私は、蹙然しゅくぜんとして〔訳注:恐れ慎んで〕思ったのである、井原先生亡き後、その説を継承した者がいるという話を聞いたことがなかったが、それは蘇仙兄であったか、と。

兄は、先生の説をよく理解していただけではなく、その説を発展させ、まだ説き明かされていなかった部分を説き明かし、ここに明確に、腎間の原気を説き尽したのである。兄こそは、百尺竿頭の一歩を進め〔訳注:工夫の上に工夫を凝らし〕、急流中を勇退した人〔訳注:無理せず確実な判断のできる人〕である。




深い尊敬を私は兄に捧げる。





また私は、東里の子産〔訳注:春秋時代の鄭の国の政治家〕が政治改革をし始めた時、当時の民衆は怒って彼が早く死ぬことを望み、黄面の老師〔訳注:道教の源流である黄老道の、老師のことか〕が上道〔訳注:その教えか〕を説き明かした際、それを聞く能力のある聴衆がいなかったため、唖〔訳注:おし〕のように押し黙ってしまったことと同じようなことがおこらないよう恐れる。

当時杏園に遊んだ者〔訳注:井原先生の家で学問に励んだ者〕が、肉眼の鬼を切断し〔訳注:すなわち心眼で読むために邪魔となる肉眼の思いを断って〕、鉄鑑の鉄鑑なるゆえんを窺い知ることができれば、すぐに春台〔訳注:晴れやかな春の舞台〕に登ることのできる騏驥きき〔訳注:名馬〕ともなることができよう。




この書をものにした兄の、姓は広岡、字あざなは富原、自ら百丈翠洞金華子と号されている。その先祖は赤松氏の胄ちゅう〔訳注:あととり〕である、云々。



寛延二季龍集   巳己〔訳注:一七四九年〕
十一月 甲子
皇都にて

中島 玄迪 貞成 謹識



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