難経鉄鑑 叙由1



私の遠い祖先である、芙〔訳注:蓮の華の異名〕堂【原注:小寺道悦】は、天正の末年〔訳注:西暦1592年〕に南京に漂泊しました。その地には、浮屠〔訳注:仏教徒〕である蓮光院日仙という方がおられ、医学に詳しかったので、この方を師として道悦は、その医伝および宗派の教説を伝授されたそうです。これが吾が家が、医学というものを知った初めです。




吾が家はその後、河内の讃良郡に居を移し、農業を始めましたが、先の理由によって、代々少なからざる者が医学を伝えられてきました。私の父である水芝翁【原注:広岡嘉通】が私たち子供に語ったことがあります、「息子たちよ、医学を学びなさい。医学は身近な所では体を守るのに便利であり、遠くには人々を助けることができるから。少し医学を知っていると少しの利益があり、深く医学を理解していると大きな利益があるから、物を利する術としてこれ以上のものはないだろう。」と。私はこの命を受けて医学を志し、京の都に遊学することになりました。




京の都には井原閲先生がおられ、医学の大家として名声をはせておられました。先生は《難経》だけを医家の宗〔訳注:医学の本源〕とされていました。私は奮起して先生に従い、その講説を伺うこと三年の後、辞して旧里に帰りました。

その後、再び攝右の浪華に出て医術を試み、年月を重ねていく最中、享保戊申〔訳注:一七二八年〕の秋九月から明年己酉復月に至るまで、初学者のために《難経》全てを講説することになりました。私はその間に経義九巻を編集し《上池水経一鉄鑑》と名づけて呼んでいました。




もともと私は文辞を操ること〔訳注:著書をしたためること〕には慣れていないので、妄填錯置の陋〔訳注:誤字・脱字・文法の誤ちによる間違い〕を必ずや犯していることだろうと思います。また、国字〔訳注:かな文字〕を用いて書いてはいないので、かなで傍訓を施して句読に便利なように配慮しております。操觚の士〔訳注:文筆を業とする人〕は、私の文章が下手だからといって、その内容をも誤っていると決めつけ、全部を棄てさることのないよう、お願いします。



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