巻頭言
大坂 広岡 蘇仙 富原 著
私は、扁鵲先生の《黄帝八十一難経》を尊崇しており、私的に《上池水経》と呼んで称えています。その結果、とうとうその経文の一々について私の意見を附して、このような伝を作成するまでになりました。私はこれを、《上池水経一鉄鑑》と名づけることにします。
問いて曰く。《史記》には扁鵲が《難経》を著わしたという言葉が載っていませんが、あなたは何を根拠としてこれを扁鵲の著であると言われるのでしょうか。
答えて曰く。先儒〔訳注:先輩の儒家〕はこの《難経》の文体を先秦時代の古文であろうと語り、一字一句すべてが法であり理にかなっていると語っています。私は思うのです、この《難経》は、秦漢以降の弁舌の立つものでは書き上げることは無理ですし、戦国時代の名医に扁鵲以上の者は存在しなかったのですから、扁鵲以外の誰がこの書を書くことができただろうかと。このように考えると、扁鵲の著作であると伝えられていることも納得できるのではないでしょうか。
また問う。この《難経》は、上古の時代の神聖が作ったものとは考えられないでしょうか。
答えて曰く。《難経》では、診脉には寸口だけを取り、施鍼には五兪だけを用いています。基本的に《黄帝内経》に説かれている三部九候の脉診・全身への刺鍼法は、質素な時代に用いるものであって、戦争の時代にこれを用いることは困難です。そのため扁鵲が、その春秋戦国の時代に即して治療体系を作りなおしたと考えることは理の当然でありましょう。《難経》をまた《黄帝八十一難経》とも呼ぶ理由は、越人もまた黄帝を祖述したためであると考えることができます。また、この《難経》の中で「経」として引用されている部分は、当時全文が存在していたと思われる《黄帝内経》からの引用なのでしょう。今存在している《黄帝内経》は、扁鵲の時代に存在したものの遺篇だけであろうと思います。
「難」とは難問という意味です。仮りに難問を設けて、造化の蘊秘〔訳注:天地自然の深奥に隠されている法則〕を探り、医道の大法を立てようとしたのです。これは越人が自身の流派として一家を立てた言葉です。これを《黄帝内経》の意味の判り「難」い部分を明確にしたものと解釈することは間違いです。
「経」とは経緯〔訳注:縦糸と横糸〕という意味です。その語法は経緯の状態に似ていますし、編が簡潔に作られているということも経緯と関係しています。そのため「経」と言われているのです。上古の時代に書物を作成した人々は全て聖人でしたから、先の経緯と通じさせて「経」と呼ばれることになりました。後世の好事の人々もさまざまな書物を作成しましたので、それを「経」と分けて「伝」と呼びました。《難経》は、この古い習慣にしたがって「経」と名づけられているのです。ある種の人々は、「聖人の立法は、万世を経し、八荒を緯す」〔訳注:聖人が立てた法は、永遠に継がれていく法則となり、広大な荒野を正す法則である〕ため、「経」と名づけられているのだ等と語っていますが、それらは全て謾説〔訳注:冗漫な説〕です。