第 一 難

第一難




一難に曰く。十二経にはそれぞれに全て動脉がありますが、寸口だけをとって五臓六腑の状態を観察し、死生吉凶の判断をする法とするのは、何故なのでしょうか。


「一」は数の始めであり、この経を説き起こす初めでもあります。そもそも一と九とは太陽の数〔訳注:陽の数は奇数であり陰の数は偶数です。その中で、一は陽の数の初めであり九は陽の数の完成された形です。そのため一と九とを太陽の数、すなわち大いなる陽の数としています。〕です。道家の人々が皆な太陽の数を尊ぶ理由は、陽が生の道だからです。この《難経》も、その生の道に法って九の数を用い、そして九九を乗じて八十一章を作成し、《八十一難経》としています〔訳注:ちなみに《老子》《素問》《霊枢》等も八十一篇で構成されています〕。すなわち一から始まり一に終わっているわけですが、これも生生して止むことがないという意味がその中にこめられています。

「難」は、心に疑いが滞るとすっきりと通じない部分ができるために起こります。人体の機能は非常に精緻にできているため、簡単には理解し難いものです。ですから、《難経》で、「問」の字を用いて篇を作っていくのではなく、「難」の字を用いて構成しているのです。このことは、非常に重く理解すべきことであると思います。字を用うる際の奇〔訳注:上手な方法〕であると言ってよいと思います。

「経」とは経緯〔訳注:縦糸と横糸〕という意味であり、人体の血脉や筋絡が互いに織りなして経緯を構成し、全身を包み保護していることを表わしています。経脉とはもともと一つの脉が全身をめぐっているだけのものです。これが十二に分けられているのは、それによって、天の十二月〔訳注:一年十二ヶ月〕に法り、地の十二水〔訳注:地上の十二の大河〕に象っているためなのです。この天の十二月は縦に行き縦の関係を表わしていてその形はなく、十二水は横に廻り横の関係を表わしていて形があります。このような関係を人体の中に見てとり、衛には形がなく栄には形があるというように、天地の象に従うものとして人体を考えているわけです。

「動脉」〔訳注:脉を搏つということ〕とは栄衛が交流し動いているということであり、これは川の急流が難所にあたった時に渦を作るようなものです。栄衛そのものを眼で見ることはできませんが、このような脉の動きをよく観察することで栄衛の動きも観察することができるのです。この栄衛の動きはすなわち血気の勢いですから、これをよく診察することができる人は、その脉の勢いがいかほどであるかということを中心として観察し、脉の形状にはさほど拘わらないものです。

寸口はまた気口とも呼ばれています。この「口」とは気〔訳注:呼吸〕を吐き出す門戸であると言えます。そのため脉気が上に出ていく場所にも口という文字が使われているのです。この気口の場所は、長さが一寸ほどしかないのですが、そこを通じて内臓の気の状態を表わす全ての脉が出入しています。そのためにこの場所を寸口と呼んでいるわけです。

十二経の中で、寸口だけを取る理由は、寸口が手にあって中位に存在するからです。四肢はそもそも諸陽の本であり、頭は諸陽の会です。陽は明で陰は暗・陽は大で陰は小・陽は動き陰は静かです。脉が動くということも同じことで、よく動くということはすなわち大きいということであり、大きいものは診易いわけです。ですから、三部の脉法〔訳注:《素問・三部九候論》の脉診法〕では、すべて頭と手と足という陽の部位で観察しているわけです。三部とは頭と手と足のことです。それぞれ頭には三ヶ所の診察部位があり、手にも三ヶ所の診察部位があり、足にも三ヶ所の診察部位があります。そして、頭は天に属し、足は地に属し、手は人に属しています。人は天と地の「中」に存在し、「中」は上下を兼ねているものであり、陰陽を総括している部分でもあります。そのため、手だけで全身の状態が診察できるわけです。また陽明の部位は手の部の天であり、少陰の部位は手の部の地であり、太陰の部位は〔訳注:寸口はこの部位にあたる〕手の部の人です。ですから、寸口は「中」の「中」に位置しているということが言えるわけです。寸口の部位以上に全身の状態を表わすことができる場所が他にあるとは考えられません。〔訳注:残念ながら《素問・三部九候論》には、『中部の天は手の太陰であり、中部の地は手の陽明であり、中部の人は手の少陰である』と、実際には書かれています。〕

五臓六腑は、五行六位に配されます。この五と六という数字は天地の中数〔訳注:一から十までが天地の全ての数です。そのうち、偶数だけを並べていくとその真ん中には六が来、奇数だけを並べていくとその真ん中には五が来ます。〕です。この五と六の数を用いることによって変化の道〔訳注:万物の変化法則〕を語り尽すことができます。人体に五臓・六腑・十二経などがあることと、五声〔訳注:音楽の調子〕・六律〔訳注:音階〕・十二管〔訳注:笛の長さ〕・五味・六和〔訳注:東西南北上下の六合(りくごう)の調和〕・十二食・五色・六章〔訳注:衣服の飾り模様〕・十二衣などの分類がなされていることと同じことです。


経脉の状態によって臓腑の状態を判断する理由は何なのでしょうか。

そもそも臓腑は根本であり経脉は枝葉です。木を考えるとよくわかりますが、根本が堅固でしっかりしていると豊かな花をその枝葉は咲かせることができます。これと同じ原理で、臓腑の気が盛な時には経脉も盛になるわけです。そして当然、臓腑の気が衰えてくると経脉も衰えてきます。これはまた、水源が深ければ川の流れも長くなり、水源が涸れてくると川の流れも竭してくるようなものです。また、臓腑がそれぞれに経脉を分けて主っていることは、封建の諸侯が領土を分け与えられていることに似ています。分け与えられた領土にはその諸侯の善悪がはっきりと表われます。臓腑の状態の善し悪しも全てその主る経脉上に同じように表われます。どのような病気に罹っている場合であれ、臓気が盛であれば生き、臓気が竭きているものは死にます。臓気が盛なものは吉であり、臓気が衰えるものは凶です。吉のものは予後は良いはずなのですが、その治療に大きな失敗があると死ぬこともあります。また凶のものは予後は不良なのですが、治療法が非常によい場合にはまた生き続けることもあります。この吉凶という言葉は、生死という言葉より意味が軽いものです。

「法」とは法則のことです。物が存在していれば必ず法則があります。このような法則は天地自然の道に法って立てられるものです。そのため聖人でなければ制度を作ることはできないのです。もし一般人が人為的に制度を作るのであれば、それは非常に不自然なものになるため、長期にわたっては通用しません。これに対して自然に法った正しい法は、天地とともに恒久に続くものです。《難経》が寸口だけを用いて脉診の基本法則とするやりかたは、神人が自然の秘奥を発して、万世不易の〔訳注:永遠に変ることのない〕規範を表わしたものであると言えます。






然なり。寸口は脉の大会する場所、手の太陰の脉動する所です。


「然」とは当然これであるという言葉であり、《難経》の答辞です。天地の法則に照らして当然と言える理論を述べるとこのようになり、この答えは全く自然のものであり人間の作為ではないということを示すために「然」という字を置いているのです。問には「難」の字を用い、答には「然」の字を用いています。この文字の使い方には、力強いバランスが取られています。

「脉」とは、血が経に従って循っているものを指します。血は水のようなものであり、経は川のようなものであり、脉はその流れのようなものだからです。もし血が経を循っていない場合は、それを脉とは呼びません。それは、水や泉が川を流れていない場合は流れとは言わないようなものです。

「大会」とは集合の大きいもののことです。肺は諸臓の上に位置し、諸臓の気を総括している、気の集まる所です。そのため寸口の部位は三部九候診の皇極〔訳注:最も重要な場所〕として、百脉を朝会する〔訳注:すべての脉を集めて会合させる〕のです。

この章で寸口と呼んでいるものは、関上の部位よりも手首側にある寸口の部位のことではありません。気口の部位のうちの一寸ほど、関上とか尺中とか分けていく以前の全体を、寸口という言葉で呼んでいるのです。


問いて曰く。脉は太淵に会すと言いますが、太淵は関前の寸部にあります。関前の寸部を診察部位としないのはどうしてでしょうか。

答えて曰く。寸口全てで五臓六腑の状態を診察します。十難・十八難に書いてあります。それはいわゆる十変〔訳注:五臓五腑の変化〕四経〔訳注:十八難参照〕が寸関尺を兼ねということから明確に推察することができます。関前の寸部だけで診ることができるのは、菽法〔訳注:五難に書かれています〕における軽重だけです。


復た問いて曰く。寸口という名称があるのですから、寸部だけを取るべきなのではないでしょうか。どうして尺部をもともに診察するのでしょうか。

答えて曰く。寸口という名称は《内経》の言葉を残しただけのもので、実際は寸部・尺部の両方を包含して指している言葉です。《内経》で三部という時は、〔訳注:全く異なった〕三ヶ所の脉を診察していますので、〔訳注:寸口と言った場合〕寸部だけを取るのです。しかしこの《難経》では、三部を一つの脉に集約させていますので、尺部をも共に取るわけです。






人の一回の呼〔訳注:吐く息〕に脉は三寸流れ、一回の吸〔訳注:吸う息〕に脉は三寸流れます。つまり一回の呼吸定息で、脉は六寸流れます。


「人」とあるのは、一般的な人という意味です。呼吸は生の本であり、脉は体の枝です。ですから、経脉の往来は全て呼吸の動きに従うのです。これは枝葉の茂り方が根の部分の生気に依存しているようなものです。

鼻息が出入する際に音がするものを「風」とし、音はなくともその出入が結滞するものを「喘」とし、音がなく滞らなくとも出入りが微細に行なわれていないものを「気」として、すべて「定息」とは区別します。「呼吸定息」とは、音がなく・滞らず・粗くなく、綿々と出入りして安静な状態のものを言います。定息は止息〔訳注:呼吸と呼吸との間の休み〕があるため生息〔訳注:生命力のある呼吸〕ができます。これは呼吸の常態となります。このような常態から逸脱するものは、その呼吸の数が増減して定息ではない呼吸になるため、数が合わなくなります。脉の長さはその人の身長の高低によって変化します。この事は、関上の部位から尺沢までを一尺として試してみるとよくわかります。






人は一日一夜に全部で一万三千五百回の呼吸をし、脉は全身を五十回循ります。


「一日一夜」は天の一度で、この度にも陰陽があります、陽は昼・陰は夜というのが天の一度の陰陽です。この天の一度すなわち一昼夜に、人の脉は全身を五十回循ります。脉にも陰陽があります、栄は陰・衛は陽と言われているものがそれです。この「五十」という数は大衍の数〔訳注:天地の働きを敷衍し演繹する数〕であり、五が五九〔訳注:四十五〕の数を得ることによって五十と成ったものです。この五という数は、すなわち天数の五〔訳注:陽の数すなわち奇数である一三五七九の五種類〕・地数の五〔訳注:陰の数すなわち偶数である二四六八十の五種類〕のことであり、数の本原となっているものです。そして天の度数である三百六十は四九の積〔訳注:すなわち三十六〕です。脉が全身を一周するために二百七十回呼吸しますが、この二百七十は三九の積〔訳注:すなわち二十七〕です。四九を参天の法に集約すると三九となりますが、一日の総呼吸数である一万三千五百は大衍の数〔訳注:五十〕と二百七十との積〔訳注:すなわち一万三千五百〕です。このように呼吸数も脉の循回数も太陽の数から離れることがありません。これはまさしく天人合一〔訳注:天と人とが同じ法則に基づいて対応して存在しているということ〕を示しており、自然の妙であると言うことができましょう。






漏水下ること百刻のうち、栄衛が陽を循ること二十五回、陰を循ること二十五回、これを全身を一周するとします。


「漏水の百刻」とは上文における一日一夜のことであり、「栄衛」とは上文における脉のことであり、「二十五回」とは上文における五十回をふたつに分けたものであり、「一周」とは上文における全身を五十回循るということです。複雑な考え方を示すために、同じような言葉を繰り返して、その条文に深みをもたせています。このような文章の構成法は、いわゆる珠が盤を走るような感じ〔訳注:お盆の上にビー玉を載せるとコロコロと転がるように流暢な文章〕です。

「漏水」とは、古代の時刻の計測法です。古代、蓮漏〔訳注:漏刻のことか〕という水時計を制作して水を入れ、その水が流れきるのを基準として一昼夜を百刻に分けました。百は大衍の偶数で、五十は大衍の奇数です。蓍〔訳注:めどぎ。易占に使う〕一根百茎を分けて五十本にして使用するのも、これと同じ意味があります。百は体〔訳注:本体。物事の働きがおこる本となるもの〕であり陰であるため動かず、五十は用〔訳注:作用。物事の働き〕で陽であるためよく動きます。この理によって、天の百刻は体であり永遠に変ることのないものであり、人の五十度は用であり時に遅速があるということになるわけです。人間の度数〔訳注:定まった回数〕に遅速がおこるために病変が生じます。病変とは、度数の常態を失ったもののことなのです。

「栄衛」とは、飲食が胃に入りその精微が化して経脉に注いだもののうち、その流れる液を「栄」とし、蒸気を「衛」として考えたものです。「栄」は沸湯したお湯が流れるようなものであるため脉の中を行き、「衛」は湯気が上に立ち昇っていくようなもので脉外に溢れているので、脉外を行くと言われています。しかしこの栄衛はもともとは一つのものです。《内経》では栄衛を分けていますが、この《難経》では栄衛の流行を集約して一つのものとしています。非常に深い理論的背景がここにはあると思います。この「栄衛」は、昼は陽分に浮いて循り、夜は陰分に沈んで循ります。そのために人間は、夜寝ている時にいびきをかくのです。いびきは、気が陰分に入って動いたために出ます。また、昼には気が浮かんで活発に開こうとするので、全身が活動し始めます。これは、気が陽分に出て外が動くためです。天地の気が一周する時は、人の気も一周しますので、一昼夜で全身を一周するとしているのです。






ですから五十回でふたたび手の太陰に会するわけです。


「手の太陰に会する」とあるのは、答えの始めで「寸口は脉の大会する場所」と言っていることと対応しています。毎日の寅の時刻〔訳注:午前三時~五時〕ごとに手の太陰に会するわけです。寅の時刻に会すると直接は言っていませんが、漏水下ること百刻とあり、百刻が下り尽きる時刻は寅の時となりますから、時刻を直接語っていなくとも寅の時であるということを知ることができるのです。文章が非常に巧みです。漏水二刻〔訳注:二十八分四十八秒〕の間に、経脉は一回循って手の太陰に注ぎますが、これは大会するわけではありません。五十回循って始めて大会するのです。このようにして大衍の数を満たすわけです。これは、十一難に、脉が五十動に満たないうちに一回止まるものについて述べ、一呼吸の間は腎気が表われていてもそれで判断せず、その脉動を五十回観察する中で始めて腎気の盛衰を判断すると説いていることと通じるものです。

問いて曰く。早朝の寅卯〔訳注:午前三時~七時まで〕の時刻は木に属します、太陰肺金がこの時刻に旺するのはどうしてでしょうか。

答えて曰く。手の太陰は脉の元首です。そのため、一日の首時に属します。一日の首時は、一日の始まりである木です。このような理由で、肺は金の臓ですがまた木に属すると言うことができるのです。これは、納音の法〔訳注:五音を六十甲子に配当する方法〕において、声音は金に属し金を主とするため、金をその始めである甲子に配しているようなものです。甲は木の幹ですがまたここでは金に属するのです。このように五行はそれぞれに五行を具えています。その状況によって変化するのだということをよく頭に入れておいてください。






寸口は五臓六腑の終始する所です。ですから法を寸口に取るわけです。


問いかけの言葉である「寸口」に対応させて答えています。寸口は三部九候の皇極です。そのため、五臓六腑の気は、寸口から出て始まり、寸口に入って終わります。これは土が万物を包含し万物を吐き出すようなものです。皇極は法律の制定される場所ですから、脉法を寸口に取ります。平旦〔訳注:早朝〕は、天地の気が始めて開く時です。気が始めて開くその直前は、天地の気が閉じ終わる時です。ですから、平旦の時間帯とは、天地の気が開闔する時だと言えます。手の太陰が平旦の時間に旺するということは、思い付きで作られた論ではありません。



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