難経原文 九
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七十三難に曰く。諸井穴は肌肉が浅薄で、気が少ないため使うに足りないものです、これを刺すことはどのように考えればよいのでしょうか。
- 然なり。諸井穴は木です。栄穴は火です。火は木の子です。ですから井穴を刺そうとするときは、栄穴を瀉せばよいわけです。
ですから経に、補うものは瀉してはいけません、瀉すものは補ってはいけませんとあるのです。それはこのことを言っているのです。
- 七十四難に曰く。経に、春には井穴を刺し、夏には栄穴を刺し、季夏には兪穴を刺し、秋には経穴を刺し、冬には合穴を刺すとあります。どういう意味なのでしょうか。
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然なり。春に井穴を刺すのは邪が肝にあるからです、夏に栄穴を刺すのは邪が心にあるからです、季夏に兪穴を刺すのは邪が脾にあるからです、秋に経穴を刺すのは邪が肺にあるからです、冬に合穴を刺すのは邪が腎にあるからです。
- その肝心脾肺腎が、春夏秋冬に繋がる理由は何なのでしょうか。
- 然なり。五臓の一病には五種類あるからです。
たとえば肝の病で、色が青いものは肝です。臊臭するものは肝です。酸を喜むものは肝です。呼を喜むものは肝です。泣を喜むものは肝です。
病の種類は非常に多いもので、言葉で全てを言い表わすことはできません。ですから四時という数に関連づけているのです。
鍼の要妙は、秋毫にあるものです。
- 七十五難に曰く。経に、東方が実し西方が虚した場合には、南方を瀉して北方を補うとありますが、これはどういう意味なのでしょうか。
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然なり。金木水火土は、互いに平されているべきものです。東方は木であり、西方は金です、木が実しようとすれば、金がこれを平します。火が実しようとすれば、水がこれを平します。土が実しようとすれば、木がこれを平します。金が実しようとすれば、火がこれを平します。水が実しようとすれば、土がこれを平します。
東方は肝ですから、肝実であることがわかります。西方は肺ですから、肺虚であることがわかります。南方の火を瀉し、北方の水を補うとありますが、南方は火であり、火は木の子です、北方は水であり、水は木の母です。水は火に勝ちます。子は母を実させることができ、母は子を虚させることができます。ですから火を瀉して水を補うことによって、木を平らげることができない時に、金を補おうとしているのです。
経に曰く。その虚を治することができないものには、その余を問うことはできない、とはこのことを言っているものです。
- 七十六難に曰く。何を補瀉と言うのでしょうか。補うべき時はどこからその気を取り、瀉すべきときはどこから気を置くのでしょうか。
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然なり。補うべきときは、衛に従って気を取ります。瀉すべきときは、栄に従って気を置きます。
その陽気が不足し陰気が有余となるものは、先ずその陽を補い、その後でその陰を瀉します。陰気が不足し陽気が有余となるものは、先ずその陰を補い、その後でその陽を瀉します。
栄衛を通行させるための、これはその要点です。
- 七十七難に曰く。経に、上工は未病を治し、中工は已病を治すとありますが、これはどういう意味なのでしょうか。
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然なり。いわゆる未病を治すとは、肝の病を見たとき肝がこれを伝えて脾に与えるであろうということを知り、先ず脾気を実して肝の邪を受けないようにさせることを言います。ですから未病を治すというのです。
中工は已病を治すということは、肝の病を見ても、相伝することがわからず、ただただ一心に肝を治療するということです。ですから已病を治すというのです。
- 七十八難に曰く。鍼に補瀉があるとはどういう意味なのでしょうか。
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然なり。補瀉の法では、呼吸出内の鍼が必至であるとは限りません。
鍼をすることを知るものは、その左を信じます。鍼をすることを知らないものは、その右を信じます。いざ刺そうとする時には、先ず左手で鍼を刺そうとする場所の栄兪の所を圧按し、さらに弾いてこれを努して、爪してこれを下します、その気の来る状態は動脈のような状態です。
鍼を順にして刺し、気を得てから推してこれを内れる、これを補と言います。動じてこれを伸ばす、これを瀉と言います。
気を得ることができなければ男は外を女は内をともにします。これでも気を得ることができなければ、これを十死不治と言います。
- 七十九難に曰く。経に、迎えてこれを奪えば、どうして虚さないことがあるでしょうか、隨ってこれを済ければ、どうして実さないことがあるでしょうか、このように虚と実とは得るような失うようなものであり、実と虚とは有るような無いようなものです、とありますが、これはどういう意味なのでしょうか。
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然なり。迎えてこれを奪うとは、その子を瀉すということです。隨ってこれを済けるとはその母を補うということです。たとえば心の病で、手の心主の兪穴を瀉すと、これが迎えてこれを奪うことになります。手の心主の井穴を補うと、これが隨ってこれを済けることになります。
いわゆる実と虚とは牢と濡という意味です。気が来る状態が実牢のものは得るとし、濡虚のものは失うとします。ですから得るような失うようなものであると言っているのです。
- 八十難に曰く。経に言う、見ることができたような状態で入れ、見ることができたような状態で出す、とはどういう意味なのでしょうか。
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然なり。いわゆる見ることができたような状態で入れるということは、左手で気が来至したのを見て鍼を内れ、鍼を入れて気が尽きるのを見て鍼を出すことを言います。
これを、見ることができたような状態で入れ、見ることができたような状態で出すと言います。
- 八十一難に曰く。経に、実を実し虚を虚し、不足を損し有余を益してはいけない、とあります。これは寸口の脉のことでしょうか、それとも病に自ずからある虚実のことでしょうか。その損益とは何なのでしょうか。
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然なり。是病〔訳注:これは病のことを指しているものです〕。寸口の脉のことを言っているのではありません。
病に自ずからある虚実のことを言うとは、たとえば、肝が実して肺が虚してる場合、肝は木であり、肺は金ですから、金と木は更々平となります。金が木を平するということを知っておかなくてはなりません。またたとえば、肺が実して肝が虚し微少の気となっている場合、鍼を用いてその肝を補わずに反って重ねてその肺を実してしまう場合があります。
ゆえに曰く。実を実し虚を虚し、不足を損して有余を益すというのは、中工が害する所です。