黄老道の起源と系譜





この黄老道の起源の一つは、春秋時代、晋の亡公子〔注:重耳(ちょうじ):紀元前696年~紀元前628年:後の晋の文公〕にあります。重耳が斉に住んでいた際、周代の礼法や天文学を計然に教えました。その計然を師とした范蠡〔注:はんれい:越の丞相:生没年不詳:越王勾践(こうせん:?~紀元前465年)を補佐して呉越の戦争を勝利に導いた〕は、その天道観(歳星を中心とした占星術、十二年の天道周期、陰陽五行説など)を学びました。そっしてもう一つは、やはり周に仕えた史書であった老耼(ろうたん:紀元前500年頃:老子の著者)とに求められます。

「范蠡言は『経法』『十大経』『称』『道原』等の范蠡型思想、即ち黄帝書の系列の祖型であり、これら黄帝書と『老子』とが結合した所に、黄老道が成立する。」〔《道家思想の起源と系譜》浅野裕一:島根大学教育学部紀要(人文。杜会科学)第十五巻〕〔注:『経法』『十大経』『称』『道原』とは、馬王堆三号漢墓から出土した《黄帝四経》のこと〕「環淵こそが戦国中期に楚より斉へ『老子』を伝え、一足先に臨淄(りんし)に移入されていた范蠡型思想中に『老子』が導入される契機をもたらした」〔《道家思想の起源と系譜》浅野裕一:島根大学教育学部紀要(人文。杜会科学)第十五巻〕結果、鄒衍(すうえん)が活動した紀元前250年~260年頃には黄老道がすでに斉で成立していました。

「そもそも『老子』と范蠡言とは、等しく周の古代天道観にその起源を持ち、しかも『老子』の成立には范蠡言が深く関与していた。故にこの両者は、古代天道観の末裔(まつえい)として、更には南方に興起した思想の双璧(そうへき)として、発生の時点より斉に移入され、稷下(しょっか)に於て諸思想を吸収して、『経法』の如き范蠡型思想へと成長を遂げた。その際、天道を主体とする范蠡型思想にもっとも深刻な影響を与えたのが、環淵により楚から伝えられた『老子』である。『老子』が創出した宇宙の本体・根源としての道は、法源の設定や形名の根拠づけ、悪の発生理由の説明等に汎く応用され、范蠡型思想が持つ特徴の一つを形造ったのである。その後范蠡型思想は、やはり西方周の古代天道観の末裔たる陰陽家及び天文暦法家と、遙か中国世界の東端で再会したことにより、更に黄帝に仮託され、『十大経』の如き黄帝書の成立を見る。このように、黄帝に仮託された范蠡型思想が『老子』を自己の内部に取り込んでいたこと、及び『老子』が自己の中に天道概念を残存させていたことから、両者は同傾向の思想と見做され、やがて黄老と連称されて、楽毅列伝の系譜の如く完全な同一学派を形成することとなった。即ち『老子』と黄帝書とは、共通の淵源より出発した後、更に前後三回に亙る接触を経て、遂に黄老道を成立させるに到ったのである。」〔《道家思想の起源と系譜》浅野裕一:島根大学教育学部紀要(人文。杜会科学)第十五巻〕と。









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