讖緯思想は春秋から出ている





春秋、それは春秋戦国時代における大国の興亡を記録した書物です。漢代には孔子が書いたと信じられており、孔子の視点がその歴史書に反映されているとして深く研究されてきました。そのため、宋代には五経(詩・書・易・春秋・礼記)の一つに挙げられています。

黄老思想の中核をなす天人相応の概念と陰陽五行説を学び取った董仲舒はそれを春秋の解釈の中でも応用しました。そうすることによって、天命にしたがうことによって繁栄する国家と、それに逆らうことによって滅亡する国家という、皇帝を天によって律する概念を作り出したと言えます。いわば皇帝という私権に対して公としての天帝の支配の優位性を歴史の中から読み取る学問の基盤を築いたわけです。これを災異説といいます。

儒学者であった董仲舒は前漢初期の清虚無為―なさざるままに治めるという黄老道支配の政治情勢を漢の武帝と共に変革し、治安維持により積極的に関わることによって帝国の安定を維持し築き上げることができたことから、儒教を国教として確立させることに成功しました。







この災異思想は前漢末期になると春秋という過去の帝国の栄華盛衰の研究のみならず、現在の帝国が天によって許されている状態なのかという研究にまで及びました。そしてついには、未来の帝国を主る者はどのような勢力となるのかという予言すなわち革命〔訳注:天命を革(あらた)める〕思想に根拠を与えるものとなりました。これが讖緯思想の萌芽となります。

讖緯(しんい)思想は、河図洛書(かとらくしょ)という数秘を示した図とともに、世界を動かす背後に存在する力を知ることができる、神秘思想としての地位を確立していきます。ここをうまく利用したのが漢帝国の簒奪(さんだつ)者と呼ばれている新の王莽(おうもう)で、さまざまな予兆を創作して帝位を奪うことに成功したわけです。

後漢に至るとこの河図洛書と結びついた讖緯思想は、図讖(としん)思想とも呼ばれ、未来を予知する学問的な地位を確立することとなります。後漢の初代皇帝である光武帝自らがこれを信じ、自らも予言を行い、天下に図讖を宣布しました(中元元年11月甲子)。このため後漢においては春秋を讖緯の概念で解釈するということが学問の基本となっていきました。







前漢の初期に隆盛を極めた黄老道はその政治における主導権は儒教に譲ることとなりましたけれども、そのまま廃されたわけではなく、ことに後宮を中心としてその命脈を保ち続けました。そして今度は讖緯思想と結びつき、後の道教を受容する基礎となります。本来老子の思想には存在しない不老不死や長命久視の思想に基づいた仙道や仏教もまたここに影響を与えていきました。

前漢末、BC48年、後の道教の基礎となったといわれている《太平経》が朝廷に献上されています(三国志補注・巻6)が、その作者である于吉は、仙人(三国志補注)であるとか沙門(仏教徒)であった(法苑珠林:巻79)という記載があることは、このあたりの事情が反映されたものでしょう。

道教、「道を求める者たちへの教え」は、魏晋南北朝の時代までは現在でいう道教を指すことも仏教を指すこともまた儒教を指すこともあったのです。(《老子・荘子》森三樹三郎著:講談社学術文庫314p)







《難経》はこのような時代の思想的な背景をもとにして書かれている書物です。









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