日本医学は仏教の身体観が中心





《難経》で展開された臍下丹田を中心とした身体観が日本において大きく開花した理由は、日本においては僧侶が文化の担い手であったためでしょう。これにしたがい、臍下丹田を命門とするという身体観に基づく難経流腹診が広く実践されるようになりました。

仏教的な身体観の大きな成果と言えるものが、《難経鉄鑑》における六十六難の図です。ここにおいて、腎間の動気・命門の火・三焦・営衛が統一的に考えられ、内なる臓腑と外なる経絡との関係の軽重が明確に理解されることとなりました。

この統一された身体認識とそれに基づいた身体観こそ、日本医学の大きな特徴をなしているものです。







この身体観は、室町時代の末期には腹診法の確立として結実し、江戸時代の中期には臨済宗の中興の祖である白隠によって養生法として結実しました。それにしたがい鍼灸の技法においても、この臍下丹田を重視しさらには衝脉に着目した流派が出てくることとなります。

この生命観の流れはさらに、明治維新を越えて大正時代に至るまで、神道の呼吸法や岡田式正座法あるいは肥田式養生術という形で開発され、日本国民の身体観および健康の向上に寄与することとなりました。









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