附録 営衛三焦 第五節 営衛行路




営は脉中を行き、衛は脉外を行きます。その運行の道路は、《内経》の各篇で異なっています。異なっているものは衛気の行路です。《邪客篇》《衛気行》などの諸篇によって衛気の運行を考えると、下焦から出て陰蹻脉に従って目の内眥の睛明に至り、昼は太陽膀胱経から始まって手の太陽に下り、足の少陽に下り、手の少陽に上り、足の陽明に注ぎ、手の陽明に下り、遂には足に下って陰分に行き、また上って目の内眥にいたって足の太陽に始まります。これは昼陽の衛気の一周です。このようにして昼は六陽経を二十五回行き、終わって夜に至ると、足の少陰に注いで始まり、手の少陰 手の太陰 足の厥陰 足の太陰に注いでまた足の少陰に帰って始まります。これは夜陰の衛気の一周です。このようにして夜は六陰経を二十五回行き、また翌日の平旦〔訳注:明け方〕に陰が尽きて陽気が発して足の太陽に始まります。

ですから、衛気の運行は営血とは異なります。営は昼陽夜陰の区別はなく、常に手の太陰に始まって手の陽明 足の陽明 足の太陰 手の少陰 手の太陽 足の太陽 足の少陰 手の厥陰 手の少陽 足の少陽 足の厥陰の経で終わってまた手の太陰肺経で始まります。これは営行の一周です。営はこのようにして臓腑の表裏の経をもって陰陽の経絡を互いに貫いて行き、昼夜陰陽の別はないものです。

人の十二経と蹻脉と任督脉の十五の経脉は、その長さは十六丈二尺あり、営血が行くこの十六丈二尺を一周すると身体を一周するものとします。







営衛の行路は昼夜で五十回というのは、この十六丈二尺のものを五十回運行することを言っているものです。この運行の回数は営衛ともに同じですが、運行する道は営と衛とでは異なっています。衛は昼は陽経だけを行き、夜は陰経だけを行きます。営はそうではありません。陰陽表裏の経を互いに貫いて行き、昼は陽経 夜は陰経という区別はありません。このように見ていくと、営衛の行路はそれぞれに異なっているように思えます。

けれども《営衛生会篇》《衛気篇》などの論には、営衛の行路は互いに並んでともに陰陽の経を内外から貫いていくという文があります。《営衛生会篇》に『営は脉中にあり、衛は脉外にあります。営は周って休まず五十回でふたたび大会します。陰陽が相貫いて環の端がないような状態です。衛気は陰をめぐること二十五回、陽をめぐること二十五回昼夜に分かれています。』と述べられています。陰陽が相貫くとは、陰経陽経を貫いて行くという意味です。衛気は陰をめぐり陽をめぐるとは、衛という言葉に営を含んで言っています。陽は陰を統べ、津を言って□□〔訳注:原文のママ:おそらくは「血」〕はその中にあり、天を言って地はその中にあるようなものです。ですから《難経》一難において、営衛は陽をめぐること二十五度、陰をめぐることもまた二十五度と作っているのは、衛の中に営を含んでいるということが理解できます。陽をめぐり陰をめぐるとは、陰経陽経ではありません。昼行き夜行くという意味です。

また《衛気篇》に『その浮気の、経を循らないものは衛気とします。精気の、経を行くものは営気とします。陰陽が相隨い、外内相貫いて環の端がないような状態です。』と述べられています。これは経中経外を内外から貫いて行き、営衛が相並んで運行しているという意味です。

であれば、営衛の行路とは異なって、営と相離れてめぐる衛があるはずです。また営衛の行路と道を同じくして営と相並んでめぐる衛気があるはずです。これによって後世《内経》を弁じていく際に、独行する衛気と並行する衛気という論が出てくることとなりました。今この二行の衛気を考えてましょう。







独行して営と相離れてめぐる衛気が、昼は足の太陽を往来するとするのは、太陽が三陽の表であり、足の太陽膀胱経が最も広く陽分を行くためです。その衛気は一周して足にいたり、足心に入り、内踝に出て、下って陰分に行きますが、これは足の少陰腎経の行路です。陰蹻の脉は足の少陰の別であり上って目の内眥の睛明の穴で足の太陽経に合します。衛気は糟粕が下焦に下ったものの中から発していますから、昼に六陽経を運行する際には必ず下焦の腎経に従って、陰蹻脉によって目の内眥の睛明穴に上行し、六陽の経を一周して、終にはふたたび腎経に帰って太陽に上ります。この理由は、衛気が下焦の腎気に従わずには上ることができないためです。

それでは営と相並ぶところの衛気があるというのはどういうことなのでしょうか。先天の気血は天地にたとえられます。営衛は日月にたとえられます。宗気は星にたとえられます。太虚の間〔訳注:宇宙空間〕は、日月星の気が用いられることによって万物が造化されています。人身もまた、上焦の宗気 中焦の営気 下焦の衛気の三つのものが用いられることによってこの身が造化されているものです。《衛気行篇》に『陽は昼を主り、陰は夜を主ります。ですから衛気の行路は一日一夜で身体を五十周します。昼は陽を二十五周し、夜は陰を二十五周し、五臓を周ります。』と述べられています。これは営衛を天道に配して、営を月とし衛を太陽に合わせて言っているものです。後人の多くがこの理を理解できませんでした。

《営衛生会篇》には『日中に陽が盛んなものを重陽とします。夜間に陰が盛んなものを重陰とします。ですから手の太陰は内を主り、足の太陽は外を主るわけです。それぞれ行くこと25回、昼夜を分けます。夜半には陰が盛んです、夜半の後に陰が衰え、平旦には陰が尽きて陽が気を受けます。日中は陽が盛んです、太陽が西に傾くと陽が衰え、太陽が入ると陽が尽きて陰が気を受け、夜半に大会します。万民は皆な寝ています。これを合陰と名づけています。平旦に陰が尽きて、陽が気を受けます。このようにして已むことなく、天地と紀を同じくします云々』と述べられています。これは営衛を天地の日月に配したものです。

営は手の太陰経に始まって足の厥陰経に終わり、身体を一周します。本文で言うところの『太陰は内を主り』というのはこのことです。営の運行は陰陽の経を貫通して、陰陽の区別なく日夜順環して尽きることがないのは、月が天の九道をめぐって、地上地下の区別なく昼夜運行して止まらないようなものです。



独行の衛

そもそも月行九道とは〔訳注:何なのでしょうか〕。天は南北の二極を基本とします。南北二極の中間を赤道と言います。赤道の北を内郭とし、赤道の南を外郭とします。一日の行路を黄道と言います。一日の行路は、春分の後は赤道の北を行き、秋分の後は赤道の南を行きます。月道九つは、黒道二つが黄道の北に出、赤道二つが黄道の南に出、白道二つが黄道の西に出、青道二つが黄道の東に出、これに黄道を加えて九道とするものです。

立春 春分には、月の行路は東方の青道に従います。立秋 秋分には、月の行路は西方の白道に従います。立冬 冬至には、月の行路は北方の黒道に従います。立夏 夏至には、月の行路は南方の赤道に従います。月の行路にはこのように九道があり、一日の行路とは異なります。

太陽は、昼は地上に出て夜は地下に行きます。月の行路は、昼は地下 夜は地上という風には別れません。昼夜、地の上下を運行して、陰陽を相貫いて行くものです。すでに太陽が地上に現れていても、月が天に残っていることがあります。これは人身における営の行路が、昼夜の区別なく陰陽の経を貫き行くのと同じです。太陽は、昼は地上を行き夜は地下をめぐって、昼夜の陰陽に従って地の上下を分けて行きます。これは人身における衛の行路が、昼は陽経を行き夜は陰経をめぐって、分けて行くのと同じです。

ですから太陽と月の行路が異なれば、人身の衛と営の行路もまた異なるわけです。これが《内経》の諸篇に言われているところの独行の衛気です。



並行の衛

では、並行の衛とは何でしょうか。そもそも《内経》に言うところの営衛の行路は、日月に配して立てられたものであることは、右に弁じたとおりです。後人はこの理を理解できず、独行し並行する衛気に惑う者が少なからずいました。

天地万物が人身を造化するのは、陰陽によります。陰陽は互いに根ざしてしかも離れることができません。独陰独陽の時には、天地は絶滅し万物も人身もその生命を失います。天は陽であり地は陰です。天の陽の精は太陽になります。地の陰の精は月になります。けれども昼は太陽の行路は地上にあり、夜は月の行路が地上にあります。これを見て、昼は太陽の行路は地上にだけあって、地下に陽はなく、地上には陽だけあって陰がないとか、夜は月の行路は地上にだけって、地下に陰はなく、地上には陰だけあって陽はない、などと考えてはなりません。どうしてかというと、昼は天の陽が盛んなため太陽の行路は地上にあって光明を輝かせます。けれどもこの時、地下に陽がないわけではないのです。夜は地の陰が盛んなため太陽は地下に入って月の行路が地上に現れます。けれどもこの時、地上に陽がないわけではないのです。

これを天道で考えてみると、陰は暗く陽は明るいものです。月は陰精ですから、自ら光明を放つことはできません。けれども夜陰に月の行路が地上に顕れて光明をなすのは、太陽の陽光を受けて輝くものです。太陽は夜は地下に入りますけれども、陽光がまだ地上にもある証がこれです。人身の衛気は諸陽にだけあって陰には行かず、夜は諸陰にだけあって陽には行かないようにみえますけれども、昼夜陰陽を貫いて行くものです。どうしてかというと、昼は陽が盛ですから衛気が表に浮き陽分に旺んに行きます。ですから陰分の衛の行路がないようにみえますけれども、昼は太陽の行路が地上に輝いて陽分に旺んに行くため、月が天に残っていたとしても陽に蔽われてあってもないような状態となるようなものです。夜は陰が盛ですから衛気が裏に沈んで陰分に行きます。ですから陽分の衛の行路はないようにみえます。夜は太陽の行路が地下に入って陰分に行くため、地上に太陽の陽の気がないようなものです。けれども月に光明をおくのは太陽の陽光によるものです。ただ太陽の行路が地下に入るために、地上に陽気がないようにみえるだけなのです。

ではどうして昼は衛気は陽経にあって陰分〔訳注:陰経など〕には行かず、夜は衛気が陽分〔訳注:陽経など〕に行くことはないと言われているのでしょうか。

その旺んに行くところから見ると、昼は太陽の行路は地上にあり夜は地下にあって、昼夜陰陽の別があるようにみえます。その気から見ると、昼は太陽の行路は地上にあって陽気が陽分〔訳注:地上〕に盛んでありまた陰分〔訳注:地下〕にもあります。夜は太陽は地下に入って陽分に陽がなくなってしまったようにみえますけれども、陽分にも陽があって月に光明がおかれているわけです。人の衛気もまたその旺んにめぐるところからみると、昼は太陽に始まり諸陽をめぐり、夜は少陰に始まり諸陰だけをめぐるようにみえます。これは営衛が離れてその運行の道を異にする、独行の衛気と言われているものです。けれどもその気からいうと、昼は衛気は陽分に旺んで陰分には薄く、夜は陰分に旺んで陽分には薄いだけです。これは営衛が互いに並んで運行の道を同じくしている衛気となります。

謹んで天道を考えてみると、日月星辰は形が異なり運行している道も別ですけれども、実は陰陽の二気が周流しているものです。陰が行くときは陽が行き、陽が行くときは陰がめぐって離れることがありません。けれどもその現れるところ旺するところについては、異なっているように別なようにみえます。人の営衛もまた一つの気が周流するもので、離れることはできません。けれどもその成るところ旺するところにおいては異なっているように別なようにみえます。独行の衛と並行の衛という二種類があるわけではないのです。けれども始めから営衛は一気であって離れることができないものと言ってしまうことは、内経の本意ではありません。ただ一にして二、二にして一、離れて離れず、異にして同じものなのです。



一元流
医学三蔵弁解 前ページ 次ページ